不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

熨斗(のし)

のし(熨斗)について、趣味について、色々なことを綴っていきます

古里の歴史が終わる時ー8(思い出の道)

2020-06-18 22:39:20 | ひとりごと

ミゾウズルネは学校通いの道だが、山の尾根を歩いて行くので近くの村々や町までが一望でき、戦時中はラジオもなく天気予報もままならぬ頃、分教所の庭に曇りは白、晴れは赤の旗が立ち、農作業の予定によって旗を見に行かされたり、茣蓙を持って夏祭りに打ち上げられる街の花火をばあさん達と見に行った懐かしい道である。

山の中から学校に行くのは大変な事である。通学路は少しは近いだろうとよく兄達と山の中の近道を抜けたのだが、同じような事を考える餓鬼どももいるもので、俺たちのの餓鬼大将の功さや武と、隣のの連中が山の中で鉢合わせになった時にはえらい事になる。喧嘩を仕掛けてみるものの、俺たちはと言えば、功さや武の後ろからただただ逃げて学校まで行くのだが、こんな事ばかりしていたので、学校に着く頃はいつも始業の鐘が鳴り終わった頃で、遅刻せずに学校に行った事が何回あっただろうか。

本校へ行くようになった頃自転車を買ってもらった。自転車で学校へ行くと毎日一時間近く歩いていた通学が行きは20分で行けるようになった。ただ、帰りはずっと自転車を引いて上って来にゃならん。1時間半の帰り道が2時間もかかるようになってしまう。

何でこんなところに家があるのだろうとつくづくと思ったものである。

6人分の兄弟姉妹の草履を爺さんがせっせと編んでくれたが、三日もすれば誰かが「こりゃもう履けん!」と言って放り出す始末で、学校の帰り道は裸足で帰って来た事もしばしばあった。

 

未熟児で虚弱体質だった俺は医者にも「助からんかもわからん」と言われながらも、母は長い道のりを歩いて街の医者まで何度も行き来した。

一本松から医者へ続く山道は母が幼子を背負い泣きながら歩いた道である。

赤いねんねこの中で眠っていると思った幼子が、前を歩く人の後姿を見て「あれはだあれ?」と母の背中で言った声を聞き、「あぁ、この子は助かる」と思ったものだと母から何度も聞かされた、そんな寂しい道である。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする