函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

初冬の縄文露天風呂

2017年11月17日 07時48分12秒 | えいこう語る

▼風が、肌身に突き刺さる寒さがやってきた。周辺の山々の広葉樹が枯れ落ちたせいか、遮るものななくなった山からの風が、勢い良く吹いてくるからに違いない。枯れ木も山の賑わいというが、今年は紅葉が例年になく美しかったせいか、枯れ木はさみしさを漂わせるといった、今の我が村の風景だ。

▼身も心も寒い日は、こんな鼻歌が自然に出てくる。♪ババンバ バンバンバン ビバドンドン・・・いい湯だな♪ということで、車で30分ほどの山間の川沿いにある、隣町の縄文露天風呂へと出かけた。立ちのぼる湯気が「いらっしゃいませ」と、挨拶をしてくれる。

▼乳白色というのではない。コバルトブルーに、わずかに白と黄色を混ぜたような、クレオパトラが大好きというような色彩の、硫黄温泉だ。露天風呂には顔見知りのおじさんが一人いた。「父さん、温度は44度かい」と尋ねると「44度少し切れるべ」と微妙な答えが返ってくる。私もそんな感じがしていたからだ。

▼80歳中頃と推測されるこの漁師のおじさん。入浴回数券の半額セールに、年金をためて一年分を購入するので、毎日来ているという。微妙な温度差の見分けは、さすがこの湯の主だ。タイムスリップが可能なら、ぜひクレオパトラの湯番役に推薦したい。それにこのおじさん、なかなかの美男子だ。今でもジーンズが似合いそうなので、クレオパトラも気に入ってくれるに違いない。

▼隣の湯船にも二人がいる。こんな会話が聞こえてきた。お互いしばらくというあいさつの後、A「今00の婆さんの初七日を済ませてきたばかりだ」B「97と言ってだな、ずんぶ長生きしたもんだね」A「おらは子供の頃、もらわれっ子だったんだけど、母親ど、このばっちゃんが親戚だったので、おら家(え)の息子頼むどと言われ、ずんぶ世話になったんだ。そこの家の子供たぢも、おらば兄貴・兄貴て、いまでも呼んでくれでいるので、行ってきたのさ」。

▼なんだか心があったまる会話が聞こえてきた。目を凝らして湯舟をのぞくと、Bさんは元町長で、Aさんは地元の方のようだ。元町長さんも現職の時は、何度も壮絶な選挙戦を戦わせた方だ。でも地元に住んでいれば、たとえ、当時反対派の人であっても、ノーサイド後は、同じ町民なのだ。

▼私の村は、村長選となれば、村が真っ二つになる。職を辞すれば、選挙戦のしこりか、移住していく村長が続いた。温泉で一緒になり、村の歴史を聞いてみるというような、環境のない村だ。隣町の元町長と住民の会話をうらやましく思う。帰りは、妻が運転し、私が助手席で冷たいビールをグイっと飲み干すのが慣例だが、妻が肩が痛いというので、往復私の運転になった。

▼家を出る前、日本各地の焼酎を紹介するテレビを観ていたので、お風呂の帰りは、迷うことなく「薩摩の芋焼酎」を購入した。妻が運転のお礼だと、用意してくれた「鶏もも肉の照り焼き」が、焼酎と私の一体感に拍車をかけたようだ。

▼日馬富士のニュースを観ながら、心技体が崩れていく自分をさて置いて、横綱とアベ総理の心技体についての解説に熱弁をふるった。「大相撲放送は、とっくに終わりましたけど」と言われ、寝床に入ったのは、午後10時頃だった。力説後だったので、何やら難しい本を読んだらしく、本を開いたまま眠りに入ったようだ。翌朝、5時前に目が覚めたが、スタンドに灯りがついていた。開いたままのページを読み返してみたら、こんな文言が目にとまった。

▼トマス・ホップスは理性を【欲望の偵察者】と言い、デヴィット・ヒュームは【欲望の奴隷】と呼んだ。カントが考える理性、道徳にかかわる実践理性は、道具としての理性ではなく、いっさいの経験的目的にとらわれずに、ア・プリオリに法則を定める純粋実践理性である。

▼寝ぼけたまなこでは意味がよくわからないが、日馬富士と加計学園問題に、関係がありそうだなとは思う。縄文露天風呂と芋焼酎が読ませた、昨夜の本なのかと思うが、スタンドを消し忘れたのも妙に納得する、昨日の午後からの私の行動だ。

▼縄文風呂の効能のお陰か、スタンドの消し忘れを妻に気付かれなかったのが幸いだった。

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