ひょうきちの疑問

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2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

小泉改革は低所得者層をペテンにかけた

2008-12-23 12:25:14 | 教育もろもろ

小泉政権は、『改革なくして成長なし』と叫び続けた。
しかし『改革』とは『貧困』を作り出すことだった。
つまり『改革なくして成長なし』とは『貧困なくして成長なし』と同じ意味だった。
(この小泉改革を受け継ごうとする勢力が中川秀直を中心とする上げ潮派)

しかし小泉政権当時、若者や低所得者層はなぜか小泉改革を支持し続けた。
『何かやってくれそう』という当てのない期待感があった。
低所得にあえぐフリーター層は
『俺はピックになりたい』
そういう期待を持っていた。

そういう若者の期待感に答えたのが、
『自由競争で強い者が勝ち残り、ピックになっていく』ことを奨励するような小泉政治だった。

彼らは小泉政治の本当の論理を読めなかったのであり、
何かやってくれそうという当時の雰囲気だけで小泉政治を支持した。
その結果、資本家は低所得者層をますます切り捨てるようになり、小泉政治もそれを合法化するための法律を準備した。
それが派遣労働者を製造業にまで拡大するという労働者派遣法の改正であった。
現在の『派遣切り』はこのようにして合法化されたのである。

小泉政治にとって、自分たちが切り捨てようとしている低所得者層から逆に支持を集めたことは、もはや怖いものなしの政治状況を作り出した。
自民党政治にとって、このときから国民は判断を仰ぐものではなく、利用するものに変わっていった。
国民がよけいな判断をしなければ自分たちの思うとおりの政治ができるのである。
自民党政治家にとって、国民は暗愚で判断能力のないほうが政治にとって都合がよいことを、小泉政治の成功は強く印象づけた。
今も自民党は基本的にこの考え方に立っている。

これに対して小泉政治への批判の目を持っていたのは、知識人層であった。
彼らは、小泉政治のもとでは貧困や格差がもたらされることを見抜いていた。
しかし、彼らの小さい声は、低所得者層を含めた大衆の前ではかき消されてしまった。
彼らは小泉改革をストップさせることができなかった。

つまり政治は低所得者層まで含めた圧倒的多数の国民が正常な判断能力を持たなければ、すぐに小泉政治のような扇動政治にペテンにかけられてしまうのだ。

国民の思考力・判断力こそが、政治の質を決定する。

そういう意味では、公教育は一部のエリート教育だけでは、国民全体の質を向上させることはできないのであって、
広く国民全体の教育水準の高さが求められるのである。

小泉改革は国民をペテンにかけている間に、エリート教育を加速させた。
小泉は味を占めたのである。
『国民が愚昧であれば、政治は簡単だ』と。
これが自民党政治の基本になった。

一部政財界には、一部の人間にエリート教育を施すことによって、国力をアップさせようとする試みがあるが、これも小泉政治の延長線上にある。
しかし、一部のエリートだけでは小泉改革のような誤った政治に対して無力であることを、悪い意味で今の日本は経験したのであり、
これから求められるのは、一部のエリートではなく国民全体の教育水準の質的な向上である。

ゆとり教育は非エリート層に対する教育水準の質の低下をもたらした。
そのなかでエリート層だけを保護するための方策が、私学振興や中高一貫教育であった。学校選択制も同様である。
しかし今回の脱ゆとり教育も、エリート層に対する学力重視であるという点で、勉強についていけない多くの落ちこぼれの生徒を生み出す危険をはらんでいる。
そういう意味で、非エリート層の学力低下をもたらす危険性があるという点では前と同じである。


その最たるものが英語教育である。
昨日(2008.12.22)発表された高校新学習指導要領案では、高校ですべての英語の授業を原則英語で行うことになっている。
そのことは、アルファベットの綴りもあやふやな英語の苦手な多くの生徒をスポイルするということである。

コミュニケーション重視は小学校英語の導入時から現れた一種のエリート教育である。
このことはゆとり教育のなかから現れたものであり、そのことはゆとり教育そのものがエリート教育を隠し持っていたことを示している。

ゆとり教育とエリート教育は相反するもののようだが、その共通点は、教育格差を生むことにより、エリート層と非エリート層に国民を分断し、非エリート層を愚民化していくことである。

小泉改革の手法と愚民化政策は軌を一にしている。
政府は弱者を切り捨て、大衆を切り捨てたかったのである。

ゆとり教育は転換したが、その本丸であるエリート教育はますます突出してきた。
英語の教師のなかにはそのことに全く無自覚で、その言葉通りにコミュニケーション能力の養成を信じ込んでしまっている人も多い。
しかしこれはエリート教育である。
高校生のなかには英語の基礎ができておらず、授業に全くついていけない生徒がかなりの数を占めている。
そういう生徒に向かって、英語で授業をするとは狂気の沙汰である。
日本語でさえ分からない英語の授業がどうして英語で分かるのであろうか。

コミュニケーション重視という美辞麗句は、
小泉改革の『改革なくして成長なし』という美辞麗句と変わらない。

また国民はこの事に気づかず、さらなる教育格差を生み出そうとするのであろうか。

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