ひょうきちの疑問

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2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 41話の1 第一次大戦前のインド、バルカン半島

2019-08-25 09:20:24 | 新世界史14 20C前半1
 第一次世界大戦前の国際関係というところです。戦争体制以前が前回の上図だった。それが1890年にドイツの首相ビスマルクが引退するのと同時に、上図に変わっていった。
 前回言ったことを復習すると、ビスマルク時代はドイツは十分お友達を持っていましたが、たった10年の間に、ふと気が付いてみると敵に取り囲まれて孤立してしまった。取り囲んだのはイギリス・フランス・ロシア。結論はこのイギリス側が勝つわけです。イギリス側の三つの協商を三国協商といいます。

 それに対してドイツも一応、三つの同盟を結んでますが、これは親戚づきあいのようなものでオーストリアはドイツと同じドイツ人で、もともと国がわかれているのが不思議なくらいの国です。イタリアは同盟といっても裏切るんです。あてになりません。
 ドイツ人がイギリス人に囲まれて、ロシア人に囲まれて、フランス人に囲まれた。こういう形で第一次世界大戦が始まっていく。ドイツ側は一応三国同盟といわれますが、この同盟は本当に成立していたかどうか分かりません。
  ポイントは・・・・・・イギリスとロシアがずっと対立していた・・・・・・その対立していたイギリスとロシアが手を組んだことです。これが1907年英露協商です。これが一番大きい。ドイツは囲まれた。なぜこんなことになったか。



【日英同盟】 そこに日本が一枚噛むのです。日本は英露協商の3年前にロシアと戦争しています。これが1904年日露戦争です。あの大国ロシア相手では日本はとても勝てないと思われていましたが、大番狂わせで勝ってしまった。世界中がこれに驚く。
 でもその裏にいたのはイギリスです。同盟を組まないはずのイギリスが最初に同盟を組んだのが日本です。これが1902年日英同盟です。実はイギリスは、日本がロシアと戦って欲しいのです。「オレの前に先に戦ってこい」と。そして日本は負けてもいいと思っていたら日本が勝ってしまった。これ半分はロシアの自滅です。



【ロシア第一革命】 日露戦争の最中にロシアでは国内から火がついて一回目の革命が起こります。これをロシア第一革命といいます。1905年です。日露戦争中のことです。
 本当のロシア革命はこのあと10年後に起こります。これが第二革命です。1917年、これが本番のロシア革命です。ロシアが滅んでソ連になる。このソ連は君たちが生まれる10年ばかり前まであった国です。

 1905年にロシアでは政府に対する反乱が起こります。このきっかけが血の日曜日事件です。ある日曜日、クレムリン宮殿・・・・・・皇帝がいる宮殿です・・・・・・その前の広場でデモが起こる。これに対して警官隊が発砲する。多数の血が流れて死者が出た。これに民衆が反発して国内が大騒動になっていった。だからロシアとしては日露戦争どころじゃなくなった。戦争は早く引き分けに持って行きたい。ロシアは引き分けのつもりです。しかし日本は勝った形で条約を結びたい。これは日本にとって難しい交渉だった。
 ではロシアはその後どうなったか。「皇帝はつまらない奴だ、皇帝をなくして自分たちの議会を作って自分たちの政治をやろう」ということになる。その組織をソビエトといいます。「議会を作って自分たちの政治をしていこう」と。自分たちの仲間を議会に送るための政党が出てきます。

 三つあります。一つはエスエル。これはかなり左かがっている政党です。左というのは社会主義思想がかってるという意味です。時代は資本主義なんですが、それに反対する考え方として社会主義、つまり計画経済というのが出てくる。その政党です。
 あと二つが、この計画経済のためなら「暴力革命だってかまわない。正義のためなら人を殺したっていい」、こういうときはたいがいウソです。これは権力者がよくやる常套手段です。そういう政党です。これがメンシェビキボリシェビキという二つの政党です。この二つとも社会主義革命を目指す政党です。どう違うのかというと、分裂しただけです。もともと一つだったものが、ちょっとした方針の違いで、少数派と多数派に分裂した。メンシェビキは少数派、ボリシェビキは多数派という意味です。つまりこの言葉にこだわらずに、これらは共産主義思想なんだということです。
 最終的にはボリシェビキが勝っていく。そのボリシェビキが10年後にソ連を作っていきます。指導者はレーニンです。それはこれから10年ばかりあとです。

 ロシアはこういう動きをどうにか抑えるために1906年に改革をする政府、ストルイピン政府ができる。これは政治家の名前です。少し改革をする。「ぼちぼち改革をしていきましょう」という。農業改革です。このように日露戦争を戦ったロシアは、足元から火がついていきます。
 足下に火が付くと威張れない。ロシアは今まではイギリスと対立していましたが、これではとてもイギリスと対立できない。それで日露戦争に負けたあとの1907年に、敵対していたイギリスと手を組む。これが英露協商です。これで三国協商が成立しました。これでドイツ包囲網が完成しました。
 だからといってロシアがメインだとは思わないでください。いま向かってるのはイギリスとドイツの戦いです。それが第一次世界大戦です。中心はイギリスです。まだイギリスの世紀です。



【イギリス支配下のインド】 ではそのイギリスです。この国はこの時に何をしているか。イギリスは大植民地帝国だった。イギリスは小さな島国ですが大植民地帝国で、最も重視していたのがインドです。
 しかしインドでも「イギリスの支配はイヤだな」という不満を持つインド人が当然出てくるわけです。そうするとそれを防ぐために手を打つ。インドの北東にベンガル地方というのがあります。ここを分割しようとする。1905年・・・・・・日露戦争の1年後ですが・・・・・・ベンガル分割令を出す。

 イギリスはワンパターンです。強い敵がいるとそことは直接戦わない。必ず強い敵を二つに分断する。敵同士を仲間割れさせて戦わせる。インドでもそうです。頭がいいというか、ずるいというか、やってることは正々堂々じゃない。真正面からは行かないです。
  君たちは知らないかな? イギリス映画で一番当たった映画は何か。「007」ですよ。007とは何か。ジェームズボンドが出てくる映画、あれはスパイ映画です。でも本当のスパイはこの映画のように、かっこよくない。それに映画のような美人も出てこない。殺されても闇から闇に葬られ、新聞にも乗らない。これがスパイです。MI6というイギリスの実在の秘密警察がモデルです。こうやって常に敵情を探るわけです。そして敵を分裂させ勢力を弱めるのです。

 次の年には、これに対してインド人が腹を立て、反英運動が起こる。その大会をカルカッタという町の名前をとってカルカッタ大会といいます。反英運動です。英はイギリスです。インド人がイギリスに対して反英運動を起こした。インドはイギリスに支配されているからです。
 どういう反対運動をしたか。戦ったら殺される、ムチで打たれる、暴力を振るわれる。だから戦わない。
 まずイギリスのお金を使わないということです。イギリスのお金ポンドをもって、セブンイレブンに行っても、セブンイレブンの店長さんが「こいつに売るな」と言う。「悔しかったらインドの通貨をもってこい」と言う。これが英貨排斥です。

 それからインドは、イギリスからの輸入品はダメだという。「買いたかったらインド製品を買いなさい。ざまーみろ」というわけです。これをスワデーシーという。これはインド語だから丸呑みするしかない。
 そして植民地からの自治独立を求める。このことをスワラージーという。インドの学校で使っている言葉はインド語ではなく英語です。「ここはインドじゃないか、インド語で教育ちゃんと教育しないか」と言う。これを民族教育といいます。「子供にインドの文化をちゃんと教えろ、オレたちはイギリス人じゃない」というわけです。



【バルカン半島の情勢】 次はその頃のヨーロッパです。ヨーロッパで火種になるところはバルカン半島です。わかりにくいけど半島です。下に地図がある。東欧、トルコ、ギリシャあたり、場所わかりますか。

  このトルコ。ここにあった大帝国は何というか。もともとはこんな大きい国があった。オスマン帝国です。近代ヨーロッパが勃興する前は世界の中心だった。最も進んだ地域はヨーロッパじゃなかった。ここのオスマン帝国なんです。それと中国の明です。ヨーロッパは田舎です。まん中に文明があり、日本は東の田舎、ヨーロッパは西の田舎です。
 しかも東西にアルプス山脈が走っていた。アルプスの北側はド田舎です。そのド田舎の海の向こうの島イギリスは、ド田舎のさらに田舎です。

 このイギリスがやっていることは、カイロ・ケープタウン・カルカッタ、これをむすぶことです。これが3C政策です。線で結んで三角形の中を全部自分が取りたい。
 これに対してドイツがやろうとしたことは、ベルリン・イスタンブール(この昔の名前はビザンティウムという)・バグダード、これを結ぼうとしています。これを3B政策といいます。
 こうやってイギリスは、イスラーム世界に進出しようとしている。そこにドイツも、「イギリスがやるんだったらオレたちも」という互角の発想です。「イギリスがやっているんだったら、オレだってやっていいはずだ」とドイツは思う。しかしイギリスは五分五分の発想ではありません。四分六の思想なんですよ。なぜなのかよく分からない。オレが6とってドイツには4。もしくは、オレが7とってドイツには3でいい。どっちが正しいのか知らないけど、これがドイツには納得がいかない。
 しかしビスマルクは「イギリスとは戦えない」と言う。それに対して若いヴィルヘルム2世は「イギリスとは五分五分だ」という。そうやってイギリスと戦う。しかし結果はドイツの負けです。
 いまドイツはイギリス勢に囲まれているところです。ドイツは戦う前に外交で負けている。

 オスマン帝国では約100年前あたりから、周辺で独立し始める国が出ている。しかし3~4割です。あとまだ広大な領地が、特にこのバルカン半島に残っています。第一次世界大戦後が非常にわかりにくいのは、イギリスが勝つ、フランスも勝つ、ロシアも勝つ。そしてここらへんをどんどん自分たちで分割して山分けしていく。しかしこれが次の紛争に繋がっていきます。
 狙いはこのオスマン帝国です。このオスマン帝国では、ヨーロッパ系の民族が独立しつつあります。ギリシアも独立する。ギリシアはもともとオスマン帝国の領土です。そういう状況がバルカン半島です。ここは今の東ヨーロッパです。もともとはオスマン帝国というイスラーム国家の領土だった。ここにヨーロッパ勢力が乗り込もうとしている。

※ 1908年に現在のイラクで発見された油田は、探査が進むに従って埋蔵量はほとんど無尽蔵であることがわかり、第1次大戦ではシェルはイギリスの国策会社「アングロ・パーシャン石油」(後のブリティッシュ・ペトロリアム)とともに油田を開発、ガソリンを供給して戦争を連合国の勝利に導いた。・・・・・・ロスチャイルド家が目をつけた石油は、やはり汲めども尽きぬ富の源泉であることが明白になった。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P120)


 そのバルカン半島情勢です。このバルカン半島、これがヨーロッパの火種です。「世界の火薬庫」といわれる。世界が吹き飛ぶような火薬庫になります。ここに進出してくるのが、まずロシアです。それをイギリスに阻まれると、ロシアは今度は東に行こうとして、それも日本に阻まれる。「東に来たらダメだ」と日露戦争を戦った。
 すると前から狙っていたところに戻って、ロシアは再び南下する。それがバルカン半島です。ロシア一色主義です。民族でいうとロシア人はスラブ人です。それに対してドイツ人はゲルマン人です。

 これはあまり強調されないけど、イギリスとアメリカ人は同じなんです。イギリスはアングロ・サクソン人という。これは地理の教科書にも出てきました。千年前イギリスに移動したゲルマン人の一派ですが、その部族がアングロ族とサクソン族で、彼らがごっちゃになって混血したのが今のイギリス人なんです。だからイギリス人は二つ合わせてアングロ・サクソンといいます。
 そのイギリス人が、大西洋を超えてアメリカに移住したのが、今のアメリカ人なんです。だからどちらもアングロ・サクソン人です。

  ではロシア。ロシアはスラブ人です。スラブ人を中心にスラブ一色にしようと、パン・スラブ主義でバルカン半島に進出する。バルカン半島でやっとオスマン帝国から独立した国々・・・・・・そこにはスラブ人が多く住んでいます・・・・・・彼らを応援していく。そのためにバルカン半島に南下する。

 そうするともう一つ、バルカン半島を狙っていたのがこのオーストリアです。オーストリアはドイツ人、つまりゲルマン人です。このオーストリアはどこを併合したか、下の図がオーストリアの領域です。オーストリアの領域はこうです。
 この前にどこを併合したか。このボスニア・ヘルツェゴビナです。そこにはスラブ人が多く住んでいました。1908年にここを新しく領土に加えた。そうするとバルカンに住むスラブ人が腹を立てた。こういう状況が生まれた。オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。つまりロシア系スラブ人とオーストリア系ドイツ人が、ここで対立しだす。

  結論を言うと、第一次世界大戦のきっかけは、1914年6月にこのオーストリアの皇太子つまり次の国王になる人が、併合したボスニアを訪れて国の儀式に参加し、車に乗ってそのボスニアの州都サラエボを回っていたところをピストルで撃たれて暗殺されたことです。あるスラブ系の青年によって。この青年をプリンツィプと言いますが、彼は隣国のセルビア人・・・・・・つまりスラブ人・・・・・・だった。この事件をサラエボ事件といいます。

 オーストリア1914年7月にセルビアに宣戦します。翌月の1914年8月に、ドイツがセルビア寄りのロシアとフランスに宣戦し、ベルギーに侵攻します。すると、この暗殺事件に関係がないイギリスがセルビアを味方して、ドイツに宣戦します。

(追記 このイギリスの動きは、2022.2月に起こったウクライナ戦争でのアメリカの動きと同じです。ウクライナとロシアの戦争に、アメリカがウクライナ支援をして介入するという形です)

 ではその前のオスマン帝国そのものはどうか。そこにも改革を求める団体が出てくる。1908年青年トルコという団体です。これが政治改革を要求し革命を起こす。青年トルコ革命です。このオスマン帝国は、ちょっと前に憲法をつくっていたけど実行しなかった。「憲法に従って政治やれよ」と青年トルコは言う。憲法に従う政治のことを立憲政治といいます。これが復活する。
 このトルコつまりオスマン帝国と、そこから独立した東ヨーロッパの地域は仲が悪い。その東ヨーロッパの国がまとまって作った同盟をバルカン同盟と言います。このバルカン同盟とオスマン帝国が戦争しだす。第一次世界大戦の直前の1912年にです。これをバルカン戦争といいます。そしてバルカン同盟が勝っていく。あの大帝国、オスマン帝国を破ります。
 
▼第二次バルカン戦争



【列強の対立図】 世界史は図で書かないと、いろんな国の敵味方の関係がむずかしい。ここで図に書きます。今ナンバーワン国家はイギリスです。これとどこが対立しているか。それがドイツです。これが基本中の基本です。第一次世界大戦はこれです。

          アメリカ     ロシア
           |        ⇕
         日本 ー イギリス  ⇔  ドイツ ー トルコ
           |        |
          フランス     オーストリア

                    ⇔(敵)   ー(味方)


 実は第二次世界大戦もこれと同じです。変わったのは日本だけです。日本はこの戦争ではイギリスの味方をしてましたが、第二次世界大戦ではドイツ側につく。しかしそれは世界史でみるとメインじゃない。メインの対立はイギリスドイツです。

  イギリスは民族で見るとアングロ・サクソンです。これはアメリカと一緒です。同盟関係は結んでいませんが、アメリカはずっとイギリスの味方です。今もそうです。これはここ100年間変わらない。日本はというと、この時そのイギリスと日英同盟を結んでいる。
 一方ドイツの兄弟分で同じドイツ人の国がオーストリアです。ドイツとロシアが喧嘩してるんじゃない。ドイツとイギリスが喧嘩してるんです。

 虫食い状態にされてるトルコつまりオスマン帝国はどっちが好きか。イギリスが一番悪さをしているからイギリスが大嫌いなんです。それに比べたらドイツがまだしもいい。
  オスマン・トルコはドイツ側です。これで見えてきた。この対立でイギリスが勝って、ドイツが負けるということは、トルコも負けるということです。すると負けたトルコの領地をすぐに取りに行く。植民地にしていく。それでイギリス植民地はさらに広がります。

 このイギリスが、あっちにはこう言い、こっちにはこう言い、矛盾することばかり言っている。それがイスラエルという国の建国に繋がっていきます。しかし今だにここでは血が流れています。
 もうちょっと言うと、フランスもこちら側です。三国協商側です。
 それからロシアも三国協商側です。
 我々日本も三国協商側です。
 アメリカもこのあと三国協商側になります。

 先走っていうと第一次大戦後はどうなるか。「イギリスと日本は仲良かったはずじゃないか」と思うかも知れませんが、日露戦争後に日本がロシアに勝って目立ってくると、イギリスはこれが気にくわないんです。まずアメリカが日本を気にくわない。それでアメリカと日本が対立しだす。そうすると日本とイギリスは日英同盟を結んでいたからイギリスは日本を応援するはずなのに、イギリスは日本を遠ざけて逆にアメリカに近づいていく。
 日本は仲間からはずされます。はずされて行き場がなくなって、次の第二次世界大戦では日本は逆にドイツ側についていく。そしてコテンパンに負ける。
 あまり細かくやっていくと、こういう流れがぶつ切れになって、なかなか一気に説明できないから、ここで言いました。こういうことをあとで細かく追っていきます。
 


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