以前、ブログ『彼の遺したもの』に
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20081118
「・・・実はこのI氏は、K氏とは友人同士。年齢も職場も違う彼らを結びつけたのは、10年前に国連タジキスタン監視団に参加し、現地で襲撃にあって殉職した国際政治学者の男性。彼はK氏の親友であり、I氏の恩師。彼らは、敬愛、崇拝するこの人物を失ったということで、より一層深く結びついているのです。
この国際政治学者の男性の口癖は「自分で調べ、自分で組み立てたものしか語らない!」で、彼は自らの足で扮装地域を歩きまわりました。それは単に学術的研究の為だけではなく、世界平和を願う気持ちの強さの表れでもありました。「紛争の解決の方程式を探しに行って来ます。」タジキスタンがどんなに危険か誰よりもわかっていたからこそ、その役目を誰かに託すことなく自ら現地に赴きました。
彼は「脅かされず、踊らされず、踊る」という言葉を残しています。この言葉は残されたものたちにとっては辛い言葉でもありますが、同時に信念となって根付きます。・・・」
と書きました。
当事は名前を書きませんでしたが、この国際政治学者は秋野豊さん。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E9%87%8E%E8%B1%8A
私は秋野氏とは一面識もありませんが、彼のことをK氏からよく聞いていたのでまるで擬似知り合い-そして自分が教え子だったような錯覚に陥ることがあります。
この秋野氏の「脅かされず、踊らされず、踊る」ということばと共に、「紛争の解決の方程式を探しに行ってきます。」という言葉が、ふとしたときに頭に浮かんできます。
ただし、私の場合は「紛争の解決の方程式」ではなく、目下のところは「原子力発電をめぐる問題を解く方程式」。
『方程式』の中の記号の一つは、『紛争』であれ『原子力発電をめぐる問題』であれ『欲』であるのだと私は思います。
人間の『欲』は必要。しかし、これが過ぎれば『悪』。
時に争いの元になり、宗教家の政治的世界も感じたりするので、宗教は個人的に好きではありませんが、唯一、宗教が禁欲的な教えを説いていたことによりそれがある一定の歯車が狂うまでの『欲』を抑えていた、という点での評価はしています。
(宗教が歯止めになっていた時代はもうほとんど終わった、と思う時もありますが。)
また、嘗ては『欲』を求めて求めるままに得られる人たちが少なかった為、『妥協』は当たり前のことでした。が、これも近代化-「民主主義が完全なものではないが、他のものよりはマシ」「資本主義は善」-という流れにより、世界のあちらこちらで、『欲』を満たすことを求められる世界になりました。
(「民主主義や資本主義」を否定するわけではありませんが、「君主制、独裁制や社会主義」と同じように、「民主主義や資本主義」もそれを率いる人たちによっては、それ以外の人たちには害になる部分もでてくると思う。)
さて、「原子力発電をめぐる問題」が(不幸なことに)福島原発事故がもとになって、世界で、反原発の波がうねりをあげています。
紛争を止めるのに、たとえばタジキスタンの兵器だけを廃絶させたところで紛争は終わらないように、原発問題も、日本(他、ドイツ、スイス、イタリアも)の原子力発電所だけを止めたところで何もかわりません。
もし現在秋野さんがいらしたならば、彼は何を考えたのでしょうか。
追記:Globisの堀義人氏が1998年のブログに、秋野氏への追悼文を書いています。おそらく二人は考え方や生き方自体に大きな違いがあったと思いますが、堀氏は秋野氏の親族であり、彼を慕っていたようです。
秋野豊氏の遺志を継ぐ