どこまで行けるか80歳

崖から突き落とし。這い上がれるのか

今度こそ本気の整理

2018年10月23日 | 楽しい後期高齢生活のために
年が明ければ80歳へ突入となる。

余命などという言葉を突き付けられてはもうのんきなこともいえない。

もう一度身の回りを整理しようと思い立った。

今までの整理は甘かったと思う。

思い出の品というのが捨てきれていない。

お気に入りがどうしても残る。

要するに置いといても残しても誰も喜ばない。

そういうものを捨てなければ。

ということになると、要るものなんて、そうはない。

まだ先があるときの「捨てる」は、更なる新な出発をいみしていた。

過去を捨て、新しいものに挑むときの行為でもあった。

けれど、余命などということになれば、捨てるとは、何と向き合うことになるか。

死であろう。

ちょっとビビる。怖がっているなあ。

余命、ねえ 

2018年10月15日 | 始めての出来事
友人から電話である。

60年前から40年かけていた終身年金がここにきて会社の都合で停止になるという。

金額のもんだいよりも、終身という安心感が壊れたことに動揺しているのだ。

そりゃそうだ。なによりもたよりしていたんだから。

話は、ここで切り捨てということではなさそうだ。

余命分の金額が一時に支払われるとか。

80歳の人では厚生省が言うには、10年余命があるらしい。

その余命分相当の金額でを一時に支給するという。

どうだろう、今まで余命など考えていなかったことに気が付いた。

いや、考えている、常に口にしているとはいえ、こういう形で余命を突き付けられるとは思わなかった。

かなり本気である。

仮に明日死ねば、年金はそこでストップである。まあ、それでいいのだろうが。死人にお金はいるまい。

で、100まで生きたら、いや、冗談ではなく最近はかなり怖い。

まあ、年金会社と加入者の賭けなんだけど、女にとってはまけっぽい賭けである。

つくずくと、余命というものを考え中。


民間家事サービス10か月

2018年10月10日 | 楽しい後期高齢生活のために
民間家事サービスを利用して10か月。

介護保険のサービスとくらべてみた。

臨時サービスの場合はほぼ契約規定なしで、希望字に来てもらえた。

定期となると正式契約となる。

規定もかわり、公的サービスなみの契約がある。

まず、保証人をたてろという。保証人の自書、印鑑を求める。契約期間がさだめられる。

契約違反には既定の罰則がある。その割には費用のちがいはないなあ。

既定の内容は、ぼけた人を相手にする場合の対応であろう。

サービス中に紛失が出たばあい。救急車を勝手に呼ばないといけないような場合。

契約者当人が契約を中断した場合の契約続行の要否など。

高齢の契約者を相手に、話にならぬ場面を想定して、しかるべき相談者をきめるわあけである。

70歳以上が対象である。

費用は当然公的なサービスよりも高額だが、サービス範囲は広範囲ある。

が、来る人によっての差は民間のほうががおおきい。

民間では気の付き方、時間の使い方に個人差がでる。

当然公的なほうには厳しい規定があって、差が出にくいのだろう。

公的サービスを受けられれば、こっちにこしたことはないが、

やむを得ず民間を使う場合、うまく臨時サービスと定期サービスを使い分けたほうがいい。

定期でいいのは、決まった日時に決まった人にきてもらえる。

臨時は必要に応じて使えるし、堅苦しい契約はいらない。

金額は同じだし、気の合う人が見つかれば指定もできる。

問題はお気に入りの人をみつけることである。



それは恐ろしいことではないかと思う私

2018年10月06日 | 楽しい後期高齢生活のために
自分も老い、家族も老い、しかも頭の狂いがどんどん進行するにつれ、困難が増してゆく。

頼りにする人はいるし、困ればみな手を差し伸べてはくれる。

が、それぞれの制度は固定している。

介護や、障害や、保険や、医療や、みな限界をもっている。

その枠では解決しない問題はいっぱいある。

例えば日曜や休日にはどれもみな、アウトである。

問題はそういうアウトの時に狙ってやってくる。

そういうとき、私は見る人が見れば、救いを求めてさまよっている人に見えるらしい。

そしてまさにそういうとき、やさしく声をかけてくる見知らぬひとがいる。

何か困ったことがあるのではありませんか。

お力になれますよ。

私の携帯番号をどうぞ。

優しい人である。声も、まなざしもやさしい。

思わず膝をついておがみたくなるほどである。

それほど私は救いがほしいという顔でうろうろしているのだろうか。

家までついてくることもある。

が、それは考えると恐ろしいことではないだろうか。

世の中に、そこまで人の不幸に手を出せるひとはいまい。

と、私は思う。

申し訳ないがあなた、あまり優しすぎるのは危険なのです。

今の世の中では。


牧師さんによる死に方の講座、最終回

2018年10月02日 | 楽しい後期高齢生活のために
講座は台風の前の日で、外は不気味な雰囲気。集まった人はやや少なめ。

タイトルは「死を忘れるな」。悪魔の捨て台詞かとも思うようなお言葉ですね。

われわれは死につつあるのではなく、死と共に生きているのであるよ。

だから常に準備しときなさい、そういうことらしい。

ここだけの話ですよと、この方(牧師さん)3回の講座で3回おっしゃった。

こういう所で言うのはおかしいだろうが、面白い方である。

死後のせかいについて、初期の聖書にはなにも書かれてません。

天国、地獄という言葉が入ったのは、宗教改革後、宗教界が二つに分かれた時代からです。

商売上(私の言い方)競争がはげしくなり、負けそうになった側が、作りだした考えであるそうな。

仏教でも、お釈迦さまは地獄、極楽という言葉はつかってない。別の提案をしている。

はっきりあの世があると書物に書いているのはイスラム教だけ。

言うなあ、この人。私は好きなタイプです。

もうひとつ、死生学者でアメリカの人。エリザベス・キュープラー・ロスさんのこと。

死んでゆく人のために、5段階の過程を唱え、最後には穏やかに受容できるという方向で

多くの支持者をえていたそうです。

この方が死に臨み、ブチ切れたという話。

つまり、ご本人はお説に反して見苦しく暴れたと。で、見ていた人たちがイタク失望したげな。

まあ、そういうものなんでしょうね。人間そんなにうまいこといきませんて。

と先生はにっこり。こういう人と友達になりたいなあ。