どこまで行けるか80歳

崖から突き落とし。這い上がれるのか

鎮静剤を投与されてしまった

2018年08月25日 | 楽しい後期高齢生活のために
医師不在時に病人がパニックになり、家族もパニックになった。

の、らしいが当人は自覚なし。必死ではあったが。

休み明けに受診した病人はともかく、家族にも鎮静剤、は脱力であった。

薬より先に、そこは人間同士、それは大変だったね、とでもいうのではないのだろうか。

昔はそれをいってくれてから話がはじまったように思う。

いや錯覚だろうか。昔も医師はそういう立場だったんだっけ。いや、やはりそういう人はいた。

今は医者がいそがしいという。だからいえないということはないと思う。

たった3秒でいえる。その結果最先端のくすりも効き目がよくなるのが人間という生き物だ。

むつかしいんである。

それともややこしい屁理屈を言わないほうがいいのだろうか。これは素晴らしい処置というべきなのか。

落ち着いた今は、せっかくの薬ではあるが飲んでいない。

明日43度。世紀末天気予報。

2018年08月24日 | 楽しい後期高齢生活のために
台風の前であったが、新聞の見出しである。

とびあがりつつ、これは来年のことだよなと思った。

もう一応今年の夏はおわっているじゃないか。

が、これは2100年の予想だとあって、力が抜けた。

別に安心したのではない。

違うだろ、それはそんな馬鹿みたいに先のはなしじゃない。

マジ、来年のはなしだろうにと、いわれのない怒りを感じる。

気温がどんどん上がり始めたのはずいぶんまえのはなしである。

そしてこの先も同じ速度というのはちがう。

去年と今年でどんだけ違うか。

それはお前が老いたからだといわれるだろうが、やっぱり21000年のことではない。

現に、今回の台風接近で、各所に41度こえがばかばかあったのではないだろうか。

そこはすでに未来などではないのだけれど。


緊急対応のネットワーク。ありがたかった。

2018年08月21日 | 成年後見人的立場
盆につづく夏休みに、病人は持ちこたえられない。

ダメと知りつつ医師に電話をいれたが、留守電。

いつもは泣きつく友人には、あまりにもシビアなため、言いづらい。

日がたつにつれストレスが積もっていく。ほぼパニックとなる。

夜に入り不安に耐えられなくなり、お世話になっているメンタルサポートに片っ端からSOS電話をいれる。

すると反応があった。

訪問看護につながった。電話で話をするだけだったが、パニックから脱出。

ついで成年後見人から連絡。

今から家に行きましょうとの連絡であった。

救われた。

こうして家族が落ち着くことで、最悪の事態は避けられる。

孤立無援と感じるだけで不安も倍増し、余計事態がわるくなる。

翌朝には介護ケアマネからも電話が入る。

成年後見人、メンタルサポーター、ケアマネージャーが連携で、医師不在の対応を考えてくれた。

成年後見を不安がるひとは多いが、こんなにたよりになるではないか。

私には強い頼りの綱となった。

この先の問題点についても私一人でもがくのではなく、専門家の助けをかりれば心強い。

最悪の事態はさけられた。そう思っている。


病気で警察を呼ぶ病気はきびしい。

2018年08月20日 | 病を斜めから見る
うちの病人には病識(自覚症状)がない。困ったことだ。

いや、それが精神病の特徴であると昔からいわれるが、そうではないと思う。

あるレベルなら、きちんと病識はある。

不安になると、助けをもとめたりするところがある。

が、それを超えると病識はなくなる。

こうなると手におえない。

夏の長期休暇に入り、世間のあらゆる機関は閉まる。

となぜか症状がわるくなる。

ふつう、病気で家族や本人が不安になった時には、救急車というのがある。

電話をすると数分以内に駆け付けてくることになっている。

だが、精神病の症状悪化に対して対応されていないらしい。

困り果てている家族はおおい。

んで、事件などになると、途端に騒ぎになるが。

どうして専門の対応窓口がないのだろうか。あるのかなあ。ないと思う。

主治医に聞いても「ケーサツに」という。

それは病気ではなく事件扱いということか。

ひどい。

花形狂言2018スタートです。

2018年08月18日 | 楽しい後期高齢生活のために
西宮会場満員でした。仕方なく最後列補助席。

で、思ったのはやっぱり古典というのはすごいのではないだろうかということ。

最初の曲「蝸牛」カタツムリの面白さは断トツであるなあと。

あんな途方もないあほな話をいつだれが考えたのだろうか。

それを数百年もずっと面白がっている日本人って、やっぱりいいのではないかなあと。

それを知りながら、あえて新作にいどむ若手たちも大変ですわな。

今回は千五郎の落語、イエ小話か、ちょっとはさまっていた。

おかしかったのは千五郎がトトロをやめて山伏、最初のカタツムリの山伏姿で全編をとおしてまかり出てくることだった。

これが、もろ、トトロであった。

この人、舞台上で毎回何か食べていないだろうか。

食べるのは大好きです。お皿に乗せてもらったものを残すと気持ちがわるいんです、とインタビュうで答えていた。

弟さん(茂山茂)はというと、食べることに罪悪感もってますって、へんな兄弟。

古典の面白さとはちがうと思うけど、やりすぎてほしくないという温かいきもちです。

「死」講座2回目

2018年08月13日 | 楽しい後期高齢生活のために
世間はお盆である。講座の出席数も一回目よりやや少ない。

多分お盆だからでしょ、と隣席の方がいう。

ほ、やっぱり今はおぼんなのか。単なる夏の連休なのかと思っていたが。

2回目の話は「日本人の死」であった。

これが昔とどんどん変わってきたと講師がいう。

まあそうだろう。世の中のほうがドンデン返しくらいかわっている。死についても当然変わるだろう。

もういつまでも亡くなった人のことにかかわらなくなっているとか。

葬式も簡単で、昔200万はかかった葬式費用が今は10万ですんでいるという。

んで、葬儀屋が困っているのかと思うと、どんどん死ぬからもうけは落ち込まないとか。

会場の老人たちがちょっと笑った。微妙は笑いであった。

私も笑った。この講師は結構面白いひとである。

キリスト教の聖者は1年に一度、11月1日にどこかに全員集合するそうだ。

日本でも11月に八百万の神が出雲に集まるという。話し合ったわけでもないのに不思議だ。

「聖者が全員集合なんて怖いですよね」と講師がいった。

私は思わず大きな声で笑ってしまったが、みなさんあまり面白くなかったのかしら。

あ、失礼!とかいってましたが。

ブラッキーな面白い「死活講座」であった。

何を求めて年寄りがお盆にこうして死活講座に集まっていたのか、それぞれの思いであろうが。

90歳へワープ?

2018年08月08日 | 始めての出来事
スーパーで、ちょっと年上と思われる人に話しかけられた。

「もうねえ、90にもなると、この暑さはあきませんわ」

ええ??と顔を見る。私よりちょっと上ではないの?と思うが。

いえいえと相手は言う。今年で90ですわと。

って、どう見ても80そこそこ。いえ、大幅に上乗せしても、80半ばの肌つや張り。

いや、肌などはこの人のほうが元気だ。

私といえば肌は冷房による乾燥で極薄く、まるで屍もようのちりめん皺。

歩く姿もロボットなみの歩き方で…。

私の外見は、この奥さんとあまりかわっていない。

そうか、私は自分を基準に年を読んでいたが、世間はすでに変わっている。

90歳といえどもこんなに若く元気なのが基準か。

い、いつの間に私は80歳をとばして90歳になっていたのかしら。

ワープだ。ワープしちゃったのである。

目指していたはずの80歳をとびこしてしまっているのであるう。


困った。80はどこにいったんよ。

突然10年先の世界に来ている私。そういえば気温が異常だ。連日40度超え。

これはもう、間違いなく2028年であろう。

と、その気になる私。

ええ?死後は生まれ変わるって思うの?

2018年08月02日 | 楽しい後期高齢生活のために
夏の講座にいった。

タイトルが「死について」である。

この暑い中を、わざわざ死の話をききにきたとは、と講師のほうが驚いている。

私もなぜこんな話にお金まで払って来たのかと、考えた。

まあ、そろそろなんだけど、イマイチどうも自分で考えてもラチがあかない。

しょうがない、ちょっと他人様にでも聞いてみようかというところだろう。

来ててみると、講師は牧師経験者であるとか。

なるほど、まあそうであろうなと思う。

私はこの年まで、牧師とかお坊さんという方と、面とむかいあって、死について以外にも、

話をしたことはない。

なかなか穏やかで、じょさいがなくて、話はお上手な方であった。

その話の中で思わず「ええ?」となったのはこの方が現在教えておられる大学の学生さんの

死後観であった。

若者は、人は死ぬと生まれ変わるとおもっているという。

びっくりした。どうしてそうなるのだろう。

てっききり死ねば無である。とか、何もないだろ。というところだろうと思っていた。

それが、ちがうの?生まれ変わる?なんでやの。

いや、昔からそういう考えがあるのは知っているが、現代の若者が、とおどろいたのである。

講師の解釈は、ゲームのせいではないかと言われてまたびっくり。

ゲームでは人は無制限に再生しているらしい。

ふへーー。なんなんだそれは。

とうとう「死」もここまで馬鹿にされるようになってもたんやなあ。

とたんに、死とは、などと真剣に考えようとしたことがばかばかしくなった。