どこまで行けるか80歳

崖から突き落とし。這い上がれるのか

〇腰痛に人の手

2020年12月31日 | とりあえず無理やり前に

久しぶりに腰椎狭窄症の話。

イキナリ寒くなって、痛み止めが大活躍だが。

私にとって腰痛は痛み止めもいいが人の手で受けるマッサージが効く。

誰でもいいというわけではなくて、マッサージのやり方に人それぞれ、違いがあることが分かった。

たった6人の経験で物言う人にはなれないのだが、6人中3人が私に合っていることにきがついた。

一人は全身をダイナミックに動かせて、もう一人は痛いところを集中的に、あと一人は患者と相談。

そして通院より訪問のほうがいい。

居ながらにして、他人の手で痛みをほぐされる心地よさはクセになる。

それと、週一回よりも週二がいい。

寒い間の悪化をこれでのりきり、暖かくなったら元気に行動を開始したい。なあ。


〇2020年よさっさと行け

2020年12月28日 | いつまでもウダウダと

今年の年始に見た夢では、妹は透明な階段を明るい光りに向かって駆け上がっていった。

現実には、冷たいコンクリートの上で、妹は現実に死んだ。

さて私はあの夢の中で、階段を駆け上がる妹を見送ってからどうしたのだったか。

目の前に開いていた黒い下り階段の前に立っている所までしか思い出せない。

あれは何だったのか。あれは、今年中に私も逝くのか。

それならまだ今年は終わっていない。

それともあの暗い洞穴は、今のこの冷え冷えとむなしい生活を意味しているのだろうか。

もし年を越えられるならば、やはり暗い、下り道はいやだ。

私も透明な明るい登り階段を光に向かっていきたい。

ろくでもなかった2020年よ、さっさと行け!

 


〇ついでにいう、これはホラーか

2020年12月25日 | いつまでもウダウダと

妹がなくなった日、妹はソーイングに行く予定だった。

妹は毎月一回のおけいこをたのしみにしていた。

モノをつくるのが好きであったし、先生がやさしく指導してくれるからだ。

自分を馬鹿にする人を、障害のあるものは素早く見抜く。そして警戒し近寄るまいとする。

反対にどんなにぶっきらぼうでも自分を理解していると感じると、後からついていき、離れない。

その敏感さは動物的であった。

ソーイングの先生は、妹の良いところを大切にしてくださっていたのだとおもう。

あの日、妹は冬のパンツを縫う予定で、早々と材料をそろえていた。

妹に起こった異変はその1時間まえであった。

救急病院から私は妹の死を知らせた。13時2分。ちょうど妹が先生宅のチャイムを押す時間であった。

その日の夕方、ソーイングの先生は、いつも妹が使うミシンの前にすわったという。

するとそのミシンが動き出したと伝えてきた。

そんなことを私は本気にはしない。ミシンが動くにはそれだけの手順がある。

なにもしないのに動けば、それは怪談奇談である。

が、その話を伝える先生からのメールを、私のケータイが受信しなかった。

買い替えたばかりのケータイがその時に故障したらしい。

妹がなくなった数日、私の周りではこうしたよくわからないことがおこっていた。

その話を人にすると、「そうなんよ、そういうことが人が亡くなったあと、よくおこるの」という。

なんでや。どうして「そんなあほな」と笑わないのだろう。

真剣にうけとめないでほしい。機械たちが一斉にストライキをおこしただけなんだ。

みんな混乱していたのだと。

 


脳にひとこと

2020年12月22日 | いつまでもウダウダと

妹がなくなる数日前から、妹はしきりに私へ感謝の言葉をかけるようになっていた。

「これ、おいしい」

「ありがとう」

「おもしろいねえ」

 私への気遣いも今まで以上であった。

それは他からも言われるので、私の思い過ごしではない。

主治医もそういった。

そしてわたしだが、(もし妹がなくなったら、私はどうするのだろう)とふと、関係なく頭に浮かんだ日があった。

そういう日頃考えない事を、わけもなく考えることはよくあることと思う。

が、それでもなお、今となれば、あれは脳からの知らせ、であったのかと、おもってしまう。

知らせなら、知らせでいい、もうちょっとはっきりとこっちへサインをしろよと自分の脳に文句を言う。

 それが脳の機能なら、きちんと役目をはたせよと。


脳は未来を知らせるのか

2020年12月19日 | いつまでもウダウダと

今年の正月。初夢というべき夢を私は見ている。

エレベーターから降りると、地下鉄の乗り換えのようなところであった。

私が行く方向は暗い下り階段であるらしい。

ふと振り返ると、やや高い位置に、透明な登り階段がある。その途中に妹の姿を見かけた。

こんなところに!そうか妹もいっしょなんだ。声をかけると妹が振り返り、目が合った、

が、妹はすばやく人の流れにのって、透明な明るい光に向かって駆け上がっていった。

迷う様子はなかった。

目が覚めて「あれあいったいなんなんだ」と思った。

今年なにか異変がおこり、同時に死ぬということだろうか。ま、そういうこともあるよなあ。

というふうに考え、特に気にはならなかったと思う。

が、妹は死に際し、最後に私がよびかけたとき、一瞬目をあけてわたしをみた。

それがあの夢のまなざしとおなじではなかったのか。

今頃になって私は夢を思い出す。はっきりと。

薄いベージュの生地に、茶色の小花をちらしたワンピースの裾を翻していた様まで。

脳が予知をしたとは思わないけど。


〇残っている痛み

2020年12月17日 | これからどうするの

亡くなった妹の知人を、町で見かけた。

この人も障害があり、高齢であったが、更に高齢の両親が大切にしていることは見ていてよく分かった。

昨年母を、そして最近父親が亡くなったと聞いていた。

親は自分たちがなくなった後のことも充分に押さえていたことだろう。

見かけたとき、寒さに会わない服装をし、ひげが伸び、マスクもしないで、買い物をしていた。

思はず立ち止まって後ろ姿を見守ってしまう。

そして考えた。もし今回亡くなったのが妹ではなく、私の方であったらと。

 妹はもとしっかりした人であり、病気にさえならなければ幸せな生活を守ることができたのではなかろうか。

だから、私がいなくなればそれなりに生活できたかもしれない。

いや、やはりそれは無理だったろう。では、妹が先になくなってよかったのか。

生き続けることだけが幸せであるとはかぎらない。生き残れさえすれば、それで幸せだという定理がすべての人に保証されているわけでもない。

帰り道に、妹が絶命していた場所に立ち止まる。

こんな寒い、石の上で死んでいった妹。あの最後の顔が焼きついている。

それでもなお、生き続けるむつかしさも鑑みて、仕方のないとであったのだと、思ってやる方がいいのだろうか。

見かけた「彼(彼女)」のような境遇の人は、この町だけでもたくさんみかける。

老いも若きもみな、将来へ大きな不安をいだきつつ、今日を生きていく。

まさしく私と妹もそうであった。そういう不安が突然なくなってしまってもなお、同じ痛みが体に残っている。


〇妹が行ったあの世って

2020年12月13日 | これからどうするの

あの世って、ひとつだろうか。

そこに行けば自分が会いたい人がいるのか。

妹は母に会いたかっただろう。母が亡くなった時にも会えなかったから。

だが、母は亡くなる前に自分の母、祖母に会いたいといっていた。

祖母に会いたい母は、少女の姿だろう。祖母も老人ではなく若く生き生きとしていた頃の祖母であろう。

妹だって、若く生き生きした母に会いたいだろう。その時の妹も少女のすがたであろう。

母は妹の世界にも、祖母のいる世界にも存在しないといけないことになる。

あのよって、パラレルなんだろう。

自分御用達、オーダーメイドの世界が待っているのだろうか。

そういうことであれば、いいじゃないか。なんで、地獄だの、わけわからない世界をでっち上げたがあるのか。人は。


〇真剣になってしまった私。

2020年12月08日 | これからどうするの

自分も老いながら、老いつつある障碍ある肉親の世話をしている人は多いだろう。

そういう人が考えているのは、みな、自分が死んだらこの子(人)はどうなる、という一点に絞られている。

私もそうだった。ひたすら自分の死後、妹の幸せを守ろうと足掻いた。

 妹の行く末の安泰を画策し,金銭的なこと、毎日の生活を厳しくもしていた。

が、今になればむなしいことであった。

そんなことより、その時、妹が望むことにすべてをかけてやればよかった。

欲しいもの、行きたいところ、会いたい人、などなど。いっぱいあった。

あっけなく妹が死んだあと、あんなに会いたがっていた人に、私が会っても、むなしいではないか。

そして、そういう人たちから聞く言葉が哀しい。

「妹さんはお姉さんを尊敬し、たよりにし、大好きだった」

そんなことを、妹がなくなってから、聞くのはつらすぎる。

私が妹の持っている力を信じてやってさえいれば、妹はもっといきいきと暮らしたはずだった。

障害はあっても、妹には人にないいい資質がいっぱいあった。

それを認めてくれた人が、たくさんいたことに今さら気が付くだけである。

私は保護といいつつ、妹を縛っていた。

あ、私は今、真剣だったなあ。

 妹の友人が言った。

「妹さんは必ず、お姉さんが幸せであることを願ってます。あんなにお姉さんを慕っていたんだから」

この言葉を信じ、この先を生きていくことにしよう。ありがとう。


〇嘆きの期限

2020年12月05日 | これからどうするの

失った人を嘆くのにも、期限があるように感じる。

亡くなった当初はもう、何をいくら嘆こうが、どんな嘆き方をしようが、すべてが受け入れられる。

文句なしにうけいれられ、嘆きたい放題である。とことん聞き役になってくれた。

が、頃がそろそろ2か月あたりにもなると、そうはいかなくなる。

故人の話にも少しブレーキをかけないと、うっとうしがられそうだ。

露骨にうっとうしいなあ、つらいのはわかるけど、もういい加減にしたら、とはいわないけれど、微妙である。

あっさりとなげかないと、しらけられそうなのである。

だが、残されたものは、このころから寂しさがひしひしと身にせまってくる。

ま、秋の夕暮れがはやいとか、寒さとかもありけど。

あまり派手には寂しがれないというニュアンスである。

 考えすぎとは思うけど。自粛しないと。

 


〇四十九日という日々は

2020年12月02日 | これからどうするの

妹がいなくなって、四十九日がすぎた。

49日までは、魂が身辺にのこっているらしい。

だから仏前に食事を上げろ、水をそなえろ、声をかけろ、線香の煙を絶やすなとアドバイスされてきた。

うちに仏壇はないが、妹の部屋の机にいつものように食べ物をつくった。

が、1週間で音を上げる。作っても作っても減らないものを作る力が続かなかった。

写真を前に、声をかけつつ食べてもみたが、むなしいじゃないか。

部屋には花や、飲み物、写真、使っていたケータイなどをあつめ、よく見ていたテレビを時間になるとつけてはいる。

が、外から帰っても、ドアを開けてじっと帰りをまっていたすがたは、ない。

朝6時半をまちかね、起こしにもこなくなった。いつまで出かけても私のケイタイには着信はない。

こうして、日が過ぎるたびに妹の姿は、希薄になっていく。

そうか、もう、2か月も私は妹の顔を見ていない。

声も聴いていない。けんかもしないし、一緒に歌もうたわない。

あたらしく描いた絵もみてやっていない。

この現実が、49日であり、そうして私から妹が遠ざかっていく実感なんだろう。

継続していた日々は絶たれた、と。

45日は多分そういうことを普通に感じる限界だったのだろう。

この先は、私が一人であるということを受け止める作業にはいるべきなんだ。