どこまで行けるか80歳

崖から突き落とし。這い上がれるのか

電子音の緊急放送って、迫力ないよ。

2016年05月26日 | ほう、へーな話
繁盛亭に行った。

高座に上がって噺が始まったところで、緊急ブザーがなった。だが誰もうごかない。

機械アナウンスが、平板な声で「非常口はこちらです」と繰り返す。

噺家も高座から「?」マークを出すだけで、みなさん、逃げなさいとは言わない。

しつこくブザーが鳴り、アナウンスは続く。

こんなに機械が騒いでいるのに、客も、舞台の人も、劇場の係りも来ない。

うん、とも、すん、ともいわない。

私は話の中の一部の演出かなともおもうが、それらしい舞台でもない。

当の噺家はここでプロの腕をためされているらしい。

この出来事をネタに、客を笑わせる。

彼は今日、兄弟子の代わりに急遽、やってきて、「なにやろうかな」となやんでいたのだそうな。

気の毒と言うか、運が悪いというか。

犯人は割れた、トイレでタバコだったとか。当人が半分下着のまま謝りに飛び出す。

客は笑って終わり。

 それにしても電子音の注意って、まったく感情がこもっていなくて、臨場感ない。

津波がくるという放送をさいごまで叫び続けたという人の事を思い出した。

 機械だったら彼女は助かっていたかもしれない。



顔ケゾリ初体験

2016年05月24日 | 楽しい後期高齢生活のために
顔の毛をそった。毛が伸びたからではない。ちょっとした好奇心である。

これで顔には思いがけない凸凹が結構あることに気がついた。

 刃物を顔に当てられている間、じっとしている。体も硬直していた。

相手が私に危害を加えるわけでないのはわかっていて、動くとあぶなそうだとおもうからだろう。

鼻の穴の周りにも毛はあるらしい。耳もそる。剃ったとあとはどうなのか。

なんかひりひりする。人が言うほどの気持ちよさは私にはなかった。

人間もサルの時代には顔に毛があったのだろう。でも、鼻にはなかったと思う。

いつから人間の顔の毛は退化したのだ。もしそのままだったら、どうだろう。

剃るだろうか。剃らないでいろいろなスタイルに刈り込むファッションや、流行があっただろう。

色なんかもカラフルにそめたりして。


80歳になることをいやがってもなあ

2016年05月23日 | 楽しい後期高齢生活のために
友人は来年で80さいになる。ひどくいやがっている。

電車で席をゆずられると傷つくらしい。

意気込みはみとめるが、「わたしのどこを見て席をゆずったのだろう」と本気で言うのはちょっとなあと思う。
 
という私も気にしているのだろうか。ふと思う。なぜ、80は嫌なのか。

20になるときも嫌だった。20歳以上の奴は死ねとかおもっていたが、気がついたら21だった。

30も40も、50もすべて桁が増える時はいやだったようだ。

が、60と70は平気になっていた。楽だし幸せだったからだろう。

だが、80は未知でとまどっている。

90歳の元気な人をみて、思った。

われわれの世代は昔の老人のイメージに支配されている。

80はもう死んでいた。生きているひとは、当時の子供から見て別の生き物のように思えていて、つまり、生まれた時から老人は老人だったように思い込んでいた。

ここで年齢に関する固定観念を変えたほうがいいのかも知れぬ。

80というアイコンを、自分のすきな所にワープさせて、エンターを押す。

そこが自分の居場所なの。若い人でも落ち着いているひとや、ちょっとなあと思う人もいる。

それぞれの生活による年齢経過はちがうのだ。遅い人速い人。

嫌がったり、不安になるまえに一度アイコンを移動させてみるか。

家の中を変えようと思う

2016年05月22日 | 楽しい後期高齢生活のために
毎日基本的には妹と家にいる。

外に出るのは散歩か買い物か、市内のもようしか。

せまい家の中で、同じ家具に囲まれていると、気分を引きずる。引越しは無理だ。住処の様子を変えよう。

台所をシステムキッチンにして、お茶碗なんか機械に洗わせよう。

妹が洗った食器をもう一度洗いなおすこともない。

洗濯機もいちいちすすぎ具合をチェックしなくてもいい。

干したあともういちどきちんとほしなおさなくてもいい。乾かして放り出してくれる奴にしよう。

仕事を減らす。家のなかを快適にする。好きな色や配置に変える。

妹にかかわるのをやめて、この計画にのめりこもう。これなら私、人のことは2ばんめにできそう。

巻き込まれるなといわれても

2016年05月21日 | ほう、へーな話


嫌だと、叫びたいが、これからは叫ぶ代わりに外に出ることにしよう。

私が叫ぶと妹が外にでていくからだ。

だからそこだけでも、改良しなければ人に迷惑をかけるだろうし、2度目はない。

妹が外に飛び出したとき、私、一瞬もう結果が何でアレ受け入れようとしていたな。

つまりどこかに飛び込んでも受け入れるつもりだったらしい。そのあとの事はかんがえたくなかった。

老いたのか。やけくそか。自分の事しかかんがえなくなったのか。

事件のあと、妹は何事もなかったように話しかけてくるが、私はひきずる。

もう、なにもしたくない。ほっときたい。具合がわるかろうが、事件をおこそうが、しるもんか。

病人にまきこまれないように、と言うアドバイスは、こういうことではないと思うが、姉妹という関係で巻き込まれないようにするのは不可能なのだ。

一緒にくらすかぎり、巻き込まれる。

まきこまれたくない人は離れて行く。傍にいないで、時々のぞきにきて、きれいなことをいって、かえればいい。

世の中の介護者と被介護関係がまきこまれておこるトラブルは離れさえすれば簡単に解消するだろう。

が、はなれることが不可能な人もいる。振り切れない人が必ずいる。

あ、私今すごく凶暴になっている。

そうだ、外に出て誰かに会い、バカ話をして大きな声でわらってみよう。


妹が家出?をした。

2016年05月20日 | 病を斜めから見る
つまらないことがきっかけで、私がキレ、妹は絶望か、混乱をきたしたのだろう。

夜だった。パジャマのままとびだした。

そのあと私は何も考えたくなくて、どうでもいい片付けものをした。

追いかければどっちに向かって走ったかわかったのだが、私も部屋着のままだったから、そのままは出られない。

あっちが強かった。この場合どうするべきだろう。

のろのろと着がえ、あてもなく追いかけようとする。

気がついて着がえと履物を用意する。

それから、家の鍵を閉めて出るべきか、開けて置くべきか考える。

考えているうちにだんだん腹が立ってきた。

自分が悪かったとか、妹にかわいそうなことをしたとかぜんぜん考えていない。

ほっとこうか?妹は鉄道に飛び込んだりするだろうか。鉄道なら直ぐ横をはしっている。

妹が行く施設の数パーセントの人は、何回も自殺未遂を繰り返したキャリアをもっていたなあ。

妹もやってみる気だろうか、などと人事のようにかんがえつつ、玄関にたたずんでぼやっとしていた。

時間経過は不明だが、私のケイタイに妹の友人から電話が入った。

妹は友人の家にいると。ああそうなのか、なんだ。と思った


マイクロソフト!勝手なことをするんじゃないっ

2016年05月19日 | ほう、へーな話
パソコンをひらいてちょっと別の用をしていたら、あら、何これ、誰がウインドウズ10などお願いしたのよ。

自動的にインストールが始まってました。

この状態でイキナリ電源きりは危ないと思い、じっと様子を見る。

ほぼ5、60分後に「ウインドウズ10へよういこそ」だって。

ここでわたしのW7は塗り替えられているのだ。

私のようなガラな電脳者のパソコンを勝手にいじるな。頭の中真っ白じゃん。

勝手に入れかえといて、いかがでしょうだって、あつかましい。

買うときは買います。それまでほっといてください。なに考えてんの。


ちりとてちん

2016年05月18日 | 病を斜めから見る

妹の頭の中を見てみたい。

どうしたらあんなにオーバーに反応できるのだろう。

当たり前のことを当たり前に否定しただけで、なにもかもすべてが台無しになったように傷つく。

なんでや、といいたいがこれが病気?いやな病気だ。傍にいる者のことを考えてほしい。

こっちだってたまらん。傷つくって、豆腐なのか。豆腐なら豆腐のように扱えばいいことぐらいはわかる。

イモや豆とおなじではない。そうか、あんたは豆腐なのか。

それにしても長いと思う。とうとう三年目だ。そろそろ高野豆腐になってもいいころだろう。

そのまえにこっちがちりとてチンになりそう。


ペットより、隣人を愛せよ

2016年05月17日 | ほう、へーな話
と、おっしゃったバチカンの法王さま。

この方って、今までの人とかわっていないか。

就任されたときからなんとなく、違っていそうとおもったのだけれど。

私はキリストさまのお世話になっているものではないが、この言葉には興味がある。

最近の、ペットをかわいがる人々を見て思っていたことは、なぜ自分がしていることは、ペットも喜んでいると思うのだろうと。

彼らは生き物としての立ち位置がちがう。法律や考えや習慣は全く違う。

いっしょに暮らしていればわかるというが、それもまた勝手にきめているだけだ。

飼いならされた奴隷は自分の意思をもてない。それだけのことだ。

法王さまが叫ばれることとはちょっとずれているのはわかるが、ペットのために、彼らを解放してやり、自分の寂しさや不安や独占欲はほかの方法で解消してはどうなのか。


うるさい!とどなりたいのを我慢でき始めた私

2016年05月16日 | 病を斜めから見る
妹の頭の中はどうなっているのか、中を見られるものならみたい。

見てもどうなることでもなくても、見れば気が済むかもしれない。

私が出かけるとわかると、落ち着きは一挙になくなる。

うろうろうろうろ。そして独り言を言う。これが同じことばかり。

すべて想定されるこれから起こるであろう出来事や自分がやろうと思うことを、オーバーに、20倍くらいに心配する。

悲劇なのだろう。それが不安からくるにしろ、寂しさからにしろ、オーバーすぎはしないのか。

考えられないこの思考の元、脳を見たい。

我慢はしている。前よりも私はかなり我慢強くなっている。

いい調子だ。そのうちに無視できるようになろう。

ときどき「うん」とか「そうやね」といってやればいいのだから。

友人の父はもっともっと始末がわるく、いばるそうだ。

妹はけっして威張ったりはしない。上等だ。このままでも仲良くやれそうだ。