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Death & Live

いわゆる日記とは違うようで。死に様や心の疲労について、つれづれなるままに書き綴るだけ。

やさしさという重荷

2006-03-03 08:21:19 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
 再びFinlandでの生活を思い起こす。

 新しい環境の厳しさを日々痛感していた。プレッシャーを常に感じていた。日々の精神的エネルギーの消費量もかなりなものだった。

 そんな時、周りの人が気を使ってくれたりすると、それはそれで正直涙が出るほどうれしいのだが、つまらないところで "気遣い" な性格が出てしまい、「やさしさにはやさしさを返さなくては」 と義務感を感じてしまう。
 変わり者なんだから、そんな自分を分かってもらえるよう工夫すればいいのに、変わり者なりに人に合わせようとする。別に周りの人に無理に合わせることもないのだろうが、"やさしさ" をもらった以上、どこかで合わせなくてはいけないと感じている自分がいて、疲労が増す。疲れるのが分かっているのに、「やさしさにはやさしさを返す」ことに義務を感じてしまってるからね、一所懸命合わせてみる。どーしよーもないんだ。

 それはそれで時にはいい方向に進むこともあるが、返ってプレッシャーになることの方が多い。自分などは普段から凸凹デコボコな精神状態だから、周りの人のやさしさが、自分の求めていないものだったりすると、そのやさしさがプレッシャー以外の何モノでも無くなってしまう。

 「やさしさにやさしさを返す」 ことにエネルギーを要して、結局プレッシャーの悪循環に陥る。

 そんなエネルギーを使ったあとは、帰宅→脱力→孤独...となる。

 特に大勢の人と会って、沢山のやさしさをもらった後は寂しさもつのるワケだが、そんな時こそ疲労困憊で人と接触するエネルギーなんて残っていない。返って誰とも会いたくなくなる。でも孤独感はつのる。 ...いったい何なんだ!まったくもってどーしよーもない性格だ。

 きっと自分は "気を使ってるフリをする我がままな奴" なんだ。 生まれ持った性格として諦めるしかないのかね(笑)
 諦める前に、まず改める努力をするべきか.....

海外での葛藤

2006-03-01 08:16:03 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
 なんとなく、あの頃の孤独を思い出したので、書いてみる。

 Finlandに滞在した時のこと。
 一人暮らしで、仕事(アルバイト)も完全に一人。現地の友人どころか、日本人の友人さえいなかった。

 外出すればひとつひとつのことに緊張する。初めての事、初めての場所、説明も注意書きもよく分からない。些細なことにエネルギーが必要だった。
 周りには楽しそうに暮らすFinlandの人々がいて、自分はその中には入れない。声をかけたくても、片言のFinland語と片言の英語。会話を続けられないと思うと声もかけられない。すべてに自信の無い自分。情けなかった。孤独だった。
 それでも、せっかく海外に来ているのだから、色々なことをしなくてはいけないといった強迫観念があって、無理してアクティブになろうとしていた。
 しかし、元々積極的に自分から話しかけたりできる性格じゃないから、わからない事はわからないままで、何一つ新しいことができなかった。だから、決して楽しい毎日ではなく、精神的プレッシャーを常に感じていた。
 当然精神的に疲弊してくる。恐ろしいほどの孤独感。

 そんな時、ふと考え方を切り替えた。そして、逆に自分に思いっきり甘くなることにした。

 海外だからこその経験を積むのも大切だけど、その為に自分が参ってしまっては意味が無い。だから思いっきり脱力することにした。
 脱力したくなったら一日部屋にいると決めた。そんな日は部屋の掃除をしたり、マンガ読んだり、よくわからないけどテレビ見たり、とにかくダラダラ過ごしていた。PCとか持って行っていなかったから、ネットとかで人とつながることもなく、一日部屋にいると完全に誰とも口をきいてないことになる。それでも、外出するエネルギーと外での孤独感よりは、一人部屋にいる孤独感の方が、よほど楽だった。

 そんな暮らしをしていたのだから、当然、何の成長もなかった。

 なぜ海外に行くことにしたかと言えば、日本の社会にどうしても馴染めない自分がいて、海外なら今までの自分を知られていないから、何かやり直せるかも、などと甘いこと考えてたんだな。でも、どこにいてもダメなんだってことが良くわかった。単なる逃避だったんだ。だから何もプラスに働かなかった。何の成長もなかった。

 まぁ、自分を見つめ直すきっかけにはなったかな

ひとり暮らしと孤独

2006-02-05 22:19:50 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
昨日、海外生活での孤独感みたいなことを書いたけど、今日は一人暮らしの孤独感について書いてみる。

 自分はずいぶん長くひとり暮らししているが、今だに寂しいと感じる瞬間がある。
本音、寂しいんだろうな。

 若い頃(20代前半くらいまでか?)は夜遊びばかりしてて、週末家で昼過ぎまで寝たりした上に、どこも出かけなかったりすると、そこに一日誰とも接触していない自分がいる。
それがむしょうに寂しくて寂しくて、用も無くコンビニ行ってみたり(笑) でも行ったら行ったでかえって孤独を感じたり(笑)

 そーゆー夜って「今日だれとも口きいてないなぁ...」なんて一日を振り返ってみたりする自分がいる。

 今は色々趣味を持つようになり、週末でも外出しないことはほとんどないので、誰とも接触の無い日とかはないが・・・・・

 あの頃は、自分1人金曜の夜中に死んだ場合は、月曜に無断欠勤して誰かが心配してくれるまで発見してもらえないんだぁ・・・なんて考えてたな(笑)

 今はBlogとかあるから、外出しなくても、以前ほど "誰とも接触していない" 的な孤独感は感じないかもしれない。でも、そのせいで直接人と話すのが苦手になりそうで怖い。

 今感じてしまう孤独は、誰かに自分を無視されたり、忘れられたりしてしまったときだろうか。家族のいない自分にとって、存在を忘れられるのはとても辛い。それが些細なことであっても。そんな時は気が付くと部屋でひとりで泣いている。たまらない孤独感だ。

海外への逃避

2006-02-04 22:55:28 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
自分には海外に滞在した経験がある。滞在といっても3ヶ月+3ヶ月の計半年だ。
海外経験の無い人に、こんなはなしをするとカッコいいと言われる。しかし、そんなモノではない。
日本社会での人間関係に疲れ、その疲れて荒れてしまっている自分を知らない海外でなら、前向きになれるかも知れない、そう思って外国へ行った。
しかし、それはただの現実逃避でしかなかった。

いちお仕事を紹介してもらって行ったので、やることが無いワケではなかった。でも、他に知り合いがいるワケでもないので、仕事の無い日はほとんど誰とも口を利かなかった。
今みたいにインターネット・カフェがあちこちにできる以前のことなので、友人にMailを送ったりするのも、週に1回くらいしかできず、日々孤独感が強まっていった。
自分は十代の頃からひとり暮らしをしているが、そういった孤独感とは比べ物にならない、誰にも認知されていないという究極の孤独感だった。周りを歩く人々は楽しげで、人は沢山いるのに、自分は孤独。
しかも、語学力を持ち合わせていなかったので、外出することにももの凄いエネルギーを使う。日本での外出も結構エネルギーを使う自分にとって、外国での外出は100倍のエネルギーを必要としていた。
だから週に1回くらいは一歩も外に出ない日とかがあり、そういう日は、外に出ないでいいんだと思うことで妙に安心したりしていた。
2回目の滞在のときは、ヒステリー気味のおばさんとの仕事だったので、人に歯向かうのが苦手な典型的内向型日本人の自分としては、完全に神経をやられてしまいました。

結局海外経験積んでいても、何ひとつ強くなっていない自分がここにいる。
強いからこそ海外に行って活動できる人もいるが、自分は弱いからこそ海外に逃げている。海外で成長しているわけではなく、海外で、人に干渉されないところで、自分を振り返っているだけだった。
元々、外出が好きじゃない自分が、外国に行ったからと急にアクティブになれるワケがない。良く考えればわかることだ。

もう30年以上、こんな自分と付き合って来たのに、未だに自分のことが良く分かっていないらしい。もう30年以上、こんな性格だったのだから、そう簡単に変わるものでもないんだな。
だから、次回からは堂々と海外旅行は現実逃避だという認識のもと出かけていこう。
前向きになれなくてもいいから、せっかく日本社会のシガラミから逃れることが出来たのだから、思う存分引きこもったりもしてしまおう。

心を病む恐怖

2006-01-28 17:30:58 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
私の逃れられない恐怖を語ろう。
まず、伯母と姉の話から...

自分を育ててくれたのは伯母だ。
実の母親は子育てを放棄した。
伯母は、老人性痴呆というにはあまりにも早い時期から想像の出来事を本気で語るようになっていた。

姉は最後まで実の母親の愛情を求めていた。
求める気持ちが強くなればなるほど精神に負担がかかってしまい、登校拒否 → 過食症・拒食症 → 対人恐怖症 → 自殺未遂の繰り返し → 分裂症 → The End
最後は空想の中のものを現実として語るようになっていた。
心を病むほどに実の母親の愛情が欲しかったのだろう。
そして、求めても求めても与えてもらえない愛情をあきらめ、死んで行った。
頭のいい、優しい姉だった。

私も常に恐怖を感じている。 なぜなら.....
母親の愛情を知らない。叔母も姉も心に病を持っていた。そういう環境の中にいて、私もそうならないという保障はない。
むしろ、そうなる確率の方が高いのではないだろうか。
その予兆を感じないわけではない。
昔から変わり者と言われているし、それ故に本当の心の底にある本音は表に出せないでいる。
時々、自分はこのまま生きていていいのだろうかと感じることがある。
自分のような時代にそぐわない人間が存在し社会生活を送ることが、世間に対しとてもマイナスになっているのでは、などと考える。
もちろん自分が世間に対して大した影響力があるなどとは思っていない。
ただ、頼れる家族がもういない自分にとって、ほんのわずかであっても、たった一人に対してであっても、マイナスな影響を与えてしまうことがあるのなら、自分の存在は迷惑ではないかと考えてしまう。
こんなことを時々考えている自分を、正直に自分を見つめる故と信じたいが、昨日書いた映画『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』の主人公のように、自分自身を疑ってしまうこともある。
"もしかして、自分も心を病んでいるのではないか" "いつか自分を見失ってしまうのではないか" そんな疑問が恐怖と共に押し寄せる。
しかし、こんな話をできる友人はなかなかいない。"おかしい" と思われてしまいそうだからだ。 "おかしい" と思われることによって、前述の疑問が裏づけされてしまう!
言えない。直接の知り合いにはとても話せない。

だから、自分はBlogを始めた。
友人・知人には一切知らせずに。まったく見ず知らずの未知の人々の中に、"あぁ、その感じわかるな" と思ってくれる人がいないかと.....
そうすれば "あぁ、私はまだ正気なんだろう" と思えるかと.....


しかし、それさえも難しそうだ。
まぁ、気長にのんびりやっていくつもりだ。
いつか、そんな人が見つかることを待ちながら。
ここ(Blog)でこそ、変な人と思われてもいいから、本音で行こう.....
そんな風に思う今日この頃です。

佐世保小6事件に想う...

2006-01-26 22:12:21 | 凸凹な人々へ ∋zooquie

もうおととしになる。

04年6月1日、佐世保で小学六年生の少女が同級生の少女を刺し殺した事件。

あの事件の "最終審判" の記事を読み返していて思い出したことをいくつか。

自分があの女児の "人格特性" について書かれた記事を読んで、友人に 「自分のことを言われているかのように、多くのことが自分に当てはまったんだ」 と言った。 するとその友人は 「みんなすぐそういう事を言うんだよな。自分にも同じ性質があるとか犯人と自分は似てるだとか...。誰だって当てはまるんだよ」 とまるで冷めたことを言った。 それは "誰でも犯罪に走る可能性がある" という意味ではなく、"そうやってすぐに自分に置き換えて分かったような口を利く奴" を嘲笑していたのだ。

そうなんだろうか?

"分かったような口を利く奴" は確かにいるし、ムカつく場合もある。普段たいしてニュースなんて気にもしないヤツが、殺人に至るほどの感情の起伏を体感したことがあるとも思えない。 しかし、ホントにみんながみんな "自分にも当てはまる" と思っているのだろうか? もし多くの人がそう思っていると仮定して、"自分に置き換える" ことは良くないことだろうか?
自分に置き換えることによって、その感情をあやふやながら理解する。 あやふやながらも、そういったことを脳の片隅にでも記憶させておくことによって、もし、自分が感情的に危険な状態が近づいたとき、"あっ、これは危険な徴候だ" と自分で気付くことができるのではないだろうか。 何かを "しでかして" しまう前に一瞬躊躇することができるのではないだろうか。
自分じゃなくてもいい。 人がその状態に近づいていることに気が付くことができれば、言葉をかけることもできるかもしれない。 当人に心の余裕があれば、相談にのることだってできるかもしれない。
これって "人の痛みを感じようとする" ことと同じくらい大切な事じゃないだろうか。

ちなみに、女児の最終審判の中で自分にもあてはまるなぁと思う点は以下の通り。
その辺のヘタな占いより、よっぽど私の性格を的確に表していると思うのだが。

 自分の中にあるあいまいなものを分析し統合して言語化するという一連の作業が苦手。
 幼少期より泣くことが少なく、甘えることもなく、一人でおもちゃで遊んだり、テレビを見たりして過ごすことが多いなど、自発的な欲求の表現に乏しく、対人行動は受動的。
 自分の欲求や感情を受けとめてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛着を形成し難かった。
 情緒的な分化が進んでおらず、怒りを認知しても、感情認知自体の未熟や社会的スキルの低さのために適切に処理できず、怒りを抑圧・回避する対処行動を持ち得なかった。また、空想に逃避する傾向がある。
 このような女児の不器用さは周囲に気づかれておらず、家庭でも学校でも女児の表現できない思いが酌み取られることはなかった。
 今後、健全な人格を形成するためには、まず情緒的な受容体験に基づく基本的信頼関係を獲得させ、その後に感情や情動の認知と処理方法、自己の意思を伝える方法などの社会的スキルを習得させる必要がある。
 女児の抱えている困難は根深く、内面的には極めて幼い状態であり、基本的信頼感を獲得するにも相当時間を要すると思われる。

自分は、いちお年齢的には大人だし、社会経験もそれなりに色々してきたつもりだ。なので、そんな中で少しは成長したワケで、この女児よりは少しは大人だし、少しは自分を客観的に見たりもしているつもりだ。ただ、今でも成長しないままの部分もあるし、自分でも何とかしたいと思っている部分もあるから、この女児の記事を読み返しながら、時々あやふやながらも自分自身を振り返っているつもりだ

このBlogにも、エラそうなこと書いたりしてるけど、それはそれで、自分の思いを表現する訓練でもあったりする。


カウンセラーを探せ

2006-01-25 23:41:14 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
昨日に引き続き...
学校に対する疑問といえば、もうひとつ。

イジメとか不登校とかが問題になった時、カウンセラーを学校に派遣させるとか、常駐させるとかって話があって、そこで傑作なのは、そのカウンセラーに元校長とか教職経験者とか当てるというもの。

疑問:どーして学校関係者なんだろう。

先生が解決してくれないから、イジメとか不登校とかで悩んでるんだよ。先生に話しても分かってもらえないから、どんどん自分の殻に閉じこもってしまうんだよ。
なのに、カウンセラーまで元先生じゃ、同じことじゃない?何の解決にもならない気がする。
イジメとか不登校とかを経験し、社会に出て行くときの不安を実体験として知ってる人が理想なのではないかと。
または、社会に出て様々な経験をした人でもいい、とにかく先生と呼ばれない人々が話を聞く必要があるんじゃないかなぁ。
そういう人たちにカウンセリングの講習を受けてもらってカウンセラーになってもらう、それがいいと思うなぁ。
一度でも弱い立場に立ったことがないと、弱い人間の気持ちなんてなかなか理解できないもの。
そー思うんですがねぇ。

あー、またついついエラそうに世に批判的なことを書いてしまった。
不愉快な箇所がありましたら、ご指摘下さい。

地球は回る

2006-01-18 20:42:46 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
日本は今1月18日だ。
ハワイももう18日になってるころだろう。

どーやら地球は回ってるらしい。
回ってる感じはしないけど。
でも、ほっといても勝手に回ってるんだな、きっと。

そうなんだ。
何もしなくても、朝が来て夜が来る。
回り続けているらしい。

しかし、回ってるのとは関係なく、人の営みは波乱万丈。
不思議なもんだ。。。。

地球が回るのを止めたとしても、波乱万丈なのだろうか。

ところで、なんで回ってるんだ?地球は...

小説 『非行少年』

2006-01-09 18:28:02 | 凸凹な人々へ ∋zooquie

昨日の日記にチョロっと書いた本の一節
30年くらい前に書かれたのかな。

主人公はラスティ。
ラスティの母親は随分前に出て行った。
ラスティの尊敬する兄は一匹狼で、バイクを駆る。

ラスティの父が、その母親と兄についてラスティに語る。

「どういう時代にも、あたりまえの人たちとはまるっきり違う眼で世の中を見るような人間はいるんだ。いいか、『あたりまえの』といったんで、『ふつうの』といったんじゃない。
 そういう人間は、自分が人と違った眼で世間を見るからって、うろたえたりしない。するどい知覚があれば、ものに動じないんだ。
 ところが、どうかすると、うろたえたり浮き足立ったりするんだよ」
「ふつうにしゃべってくれよ」
 おれは、おだやかにいって、
「ややこしいいいかたされても、おれ、わかンねえんだ」
「おまえの母さんは、おかしな女じゃなかった」
 おやじは、噛んでふくめるようないいかたで、
「世間が考えているのとは反対で、兄さんも頭がおかしいわけじゃない。ただ、芝居でいうミス・キャストなんだ。
 もっと昔に生まれていたら、非の打ちどころのない騎士にもなれたし、戦国時代なら自分の運命を切りひらいてゆく風雲児ってところだ。
 時代をまちがえて生まれてきた。河のむこう側でなくてこっち側で生まれた。どんなことでもやれる能力を身につけていながら、自分がやりたいことが見つからないんだよ」

原題:RUMBLE FISH
作者:S.E.ヒントン

こーゆーことなんでしょうね、生きていく難しさって。
ヒントン恐るべし。ものすごい作家です。