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今年4月12日に笠間市佐白山の山城へ樹木医殿に連れて行っていただいたときに、城跡にあった ちとせまつ についての由来を知りたかったのですが、わかりませんでした。現地 ちとせまつ の傍らには石碑があって「 ちとせまつ 太田武和書 」とだけ書いてありました。
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ここに植えられている ちとせまつ は五葉松です。
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ちとせまつ は石柱の柵に囲まれていました。
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ちとせまつ は幹が傾いていて、1本の石柱に寄りかかっていて、石柱が傾いています。年代を感じますが古木というにはちと早いかも。
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また現地には城址について、上のような案内板もありましたが、ちとせまつ への言及はみあたりませんでした。
その後、南高校の特別講座「楽しい自然観察」の笠間市在住の先生にお聞きしていたところ、本日資料を貸していただきました。「笠間の文化財読本」シリーズです。
この資料と現地の笠間城址についての案内板などを合わせて雑草が理解したことは以下です。
佐白山に山城ができる前には、佐白山正福寺という大寺院がありました。奈良時代に山中に僧坊が建てられ、平安時代から鎌倉時代初めには百余もの僧坊をもつ信仰の山として栄えていたそうです。
ところが寺同士の勢力争いがあったので、下野国から遣わされた藤原時朝によって正福寺が滅ぼされ、笠間氏を名乗った時朝によって、僧坊は破却されて山城が築かれました。領主となった笠間時朝は、その祟りに悩まされたので、六坊を再建したそうです。笠間城記から六坊の場所を推定すると城の空堀の内側から大手門手前までに五坊があったようです。
天正18年(1590年)玉生美濃守が笠間城を預かった時、城曲輪の整備を行うため、四坊を廃止し、内一坊を残り二坊の境内を整理して移転して観音堂を立てたそうです。つまり六坊が二坊となり観音堂が建てられ正福寺が再建されたようです。
正保絵図(正保:1644~1648年)によると、ここに観音堂と三重塔が描かれ境内がよく整っていて坂東二十三番札所として栄えたようです。三重塔は室町時代に笠間高廣が建てたと笠間城記に記されています。(1549年以降~1584年以前のいつか)
文政年間(1818~1830年)の笠間城下之図によると、山門が建てられ門には佐白山の山額があり、今は麓の観世音寺にかかげてあります。この山額を書いたのは、京都宇治の黄檗宗万福寺七代目住職悦山だそうです。正面には五間四面の観音堂があり、松の古木があって、
はるばると 登りておがむ 佐白山 いつも絶えせぬ 松風の音 が、ここの御詠歌となっているそうです。
明治三年(1870年)廃仏毀釈で正福寺の三重塔や観音堂が破却され本尊仏や仏具はのちに玄勝院に保管された。
昭和二年(1927年)日蓮宗修法により、真浄寺信者有志が百坊供養講を組織し、山中に散在する石塔や供養塔を収集、百坊供養塔とし毎年4月15日が縁日です。江戸時代の正福寺住職名や年代のわかるものなど22基の印塔、墓石供養塔があります。
このように、笠間時朝がここに城を築く前から佐白山正福寺の僧坊が山中にあって、観音堂があったと伝えられていて、観音堂の前には大きな松の木があって、千とせ松と呼ばれていたといわれます。
現在植えられている松は、天正18年(1590年)観音堂建設の頃というほど古いものではなく、何代目かのものであろう。
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