武蔵國日記(むさしのくににっき)

土佐日記にあやかって、「女もすなる日記といふものを、中年男もしてみむとてするなり」

手前の論理

2007-09-18 11:52:12 | 随筆
本日の朝日新聞 
奈良の放火殺人事件の少年履歴の流出についての社説を読んでいて引っ掛かりました。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
http://www.asahi.com/paper/editorial20070918.html

単行本の著者と内部情報漏洩者とおぼしき医師の二人が家宅捜索を受けた一件、
彼等の行為について一般的な苦言を呈しているものの、
捜査当局からの”圧力”を気にした優しい心遣いをしていることに違和感を感じたのは否めないです。

底意には、自分達の取材活動の自由さを奪うものに対する懸念と
取材内容によって検挙されることの不安をメインに社説は筆を進めていると感じました。
なるほど「報道の自由、表現の自由」は憲法に保証されたものでしょうが
やはり本来、門外不出の捜査資料が外部に漏れ出たことまで不問に付すと云うことはないのでは無いだろうか??
(これが食品業界や医療業界ネタだったら、また鬼の首を獲ったとような書き方だろうな。)

取材活動が萎縮するとは、どう云うことか?
本当に信念を持って取材し、報道するべき必要があると考えるのなら
検挙されることなど怖くはないのではないだろうか?

いつも、言論の自由を声高に叫んで、自分達の業界以外のことならば、
或る意味興味本位でしつようにイジメの様に報道し続ける方達
自分は絶対の安全地帯に身を置いて言葉の鉄砲を撃ち続けるようなものだと気付かないのでしょうか?


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