修行がそのまま悟りであると、
今日読んだ「正法眼蔵を読む」に書いてあった。
私は自分が必要と思う行を
ただ毎日やっているのであって、
これはこれで
このままで良いことがわかったので、
疑うことなく行じていくこととする。
(参考 正法眼蔵を読む 弁道話の巻 谷口清超著)
<仏徳がそなわる>
かくて尽きることなく、絶ゆることなき、不可思議、不可測の仏法(真理)を、自然界と人間とが相ともに全世界にあまねく流通させて行く。これまことに荘厳極りなき一大盛儀だといわなければならない。けれども、このことは坐禅している当人の知覚には入らない。もし当人に、凡ゆる自然界が仏性を語り、真理を展転しているその声がきこえ、人々の説法が耳に入ったりすることになると、これは却って困る。何故なら、真の瞑想は、“そのまま”坐るのであって、何かの不可思議な声を聞こうとすることではない。あるいは其他諸諸の神秘能力を開発することでもない。“そのままの証”が本当である。
もし多くの凡人の思うが如く、修行して行ってパッと悟りに達するというような二段階が考えられるならば、これは相対的思考であるから、お互いに覚知し合うであろう。まだ悟れぬとか、悟った後にはもう修行はいらぬというようなことになるかもしれない。そんな修と証とが二つあるのではないのである。こんなことが悟りの本道ではない。そのような迷いの心でもって、悟りを求めても、それは決して得られない。修と証とは本来一つであり、そのまま坐り、当り前が当り前に行われ、かくて修行は永続し迷情を超越するのである。
今日読んだ「正法眼蔵を読む」に書いてあった。
私は自分が必要と思う行を
ただ毎日やっているのであって、
これはこれで
このままで良いことがわかったので、
疑うことなく行じていくこととする。
(参考 正法眼蔵を読む 弁道話の巻 谷口清超著)
<仏徳がそなわる>
かくて尽きることなく、絶ゆることなき、不可思議、不可測の仏法(真理)を、自然界と人間とが相ともに全世界にあまねく流通させて行く。これまことに荘厳極りなき一大盛儀だといわなければならない。けれども、このことは坐禅している当人の知覚には入らない。もし当人に、凡ゆる自然界が仏性を語り、真理を展転しているその声がきこえ、人々の説法が耳に入ったりすることになると、これは却って困る。何故なら、真の瞑想は、“そのまま”坐るのであって、何かの不可思議な声を聞こうとすることではない。あるいは其他諸諸の神秘能力を開発することでもない。“そのままの証”が本当である。
もし多くの凡人の思うが如く、修行して行ってパッと悟りに達するというような二段階が考えられるならば、これは相対的思考であるから、お互いに覚知し合うであろう。まだ悟れぬとか、悟った後にはもう修行はいらぬというようなことになるかもしれない。そんな修と証とが二つあるのではないのである。こんなことが悟りの本道ではない。そのような迷いの心でもって、悟りを求めても、それは決して得られない。修と証とは本来一つであり、そのまま坐り、当り前が当り前に行われ、かくて修行は永続し迷情を超越するのである。