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修行がそのまま悟りである

2017-08-14 11:18:20 | 日記
修行がそのまま悟りであると、
今日読んだ「正法眼蔵を読む」に書いてあった。
私は自分が必要と思う行を
ただ毎日やっているのであって、
これはこれで
このままで良いことがわかったので、
疑うことなく行じていくこととする。

(参考 正法眼蔵を読む 弁道話の巻 谷口清超著)
<仏徳がそなわる>
かくて尽きることなく、絶ゆることなき、不可思議、不可測の仏法(真理)を、自然界と人間とが相ともに全世界にあまねく流通させて行く。これまことに荘厳極りなき一大盛儀だといわなければならない。けれども、このことは坐禅している当人の知覚には入らない。もし当人に、凡ゆる自然界が仏性を語り、真理を展転しているその声がきこえ、人々の説法が耳に入ったりすることになると、これは却って困る。何故なら、真の瞑想は、“そのまま”坐るのであって、何かの不可思議な声を聞こうとすることではない。あるいは其他諸諸の神秘能力を開発することでもない。“そのままの証”が本当である。
もし多くの凡人の思うが如く、修行して行ってパッと悟りに達するというような二段階が考えられるならば、これは相対的思考であるから、お互いに覚知し合うであろう。まだ悟れぬとか、悟った後にはもう修行はいらぬというようなことになるかもしれない。そんな修と証とが二つあるのではないのである。こんなことが悟りの本道ではない。そのような迷いの心でもって、悟りを求めても、それは決して得られない。修と証とは本来一つであり、そのまま坐り、当り前が当り前に行われ、かくて修行は永続し迷情を超越するのである。

ご無沙汰ご容赦くださいませ

2017-08-14 07:37:55 | 日記
人様に
差し上げるべき連絡を
失礼してしまうとか、
音沙汰なしで心配をかけっぱなしであるとか、
ご無沙汰している方とか、
沢山の人達がいます。
申し訳ないことであります。
でも実相を顕わすことができれば、
実相のうちには、
一切合切が存在しておりますので、
後で何とかなることでありますので、
勘弁していただくしかございません。
でも私は健在であります。
ご安心ください。

竿頭進歩する時

2017-08-14 06:55:37 | 日記
実相を信じるか
それとも信じないか、
心がギリギリの選択を迫られる時が
いつかはやってきます。
その時崖から飛び下りるみたいに
私は実相を信じる選択をしたのであります。
それが、
竿頭進一歩の時であり、
人が神への「信」を本当に得る決断の時であります。
竿の先から飛び降りるような「心の体験」をして
人は実相を観る世界へと
変化するのです。