科学的祈り(神想観)は
人間の内容を変化させてしまうのである。
人格を神の人格へと変えてしまうのである。
下の引用文の女性は、
“今此処”に“愛の神が現前し給う”と感じて“神を直接体験する”というような感じで祈ったのである。
さらに
“神との一体感”の中に自己を浸透させるように祈ったのであった。
そうしたら
過去にあった如き“人生から疎外されている”というような感じが剥落して行ったのである。
神想観もこの祈り方である。
神想観のとき、
五官の世界を去って
“神の国”に往くのである。
五官の世界を去ったら、もうそこは創造の神がまします“神の国”なのだ。
その“神の国”に自分の本体である“神の子”が神の許に存在しているので、
「神の子円満完全」「実相円満完全」と観じて
“神”と一体なることを観じるのである。
リアルに“神”を観じるのである。
なぜ“神の子”が円満完全であるのかというと、
創造の神と一体であるから
完全であるのである。
ここがポイントである。
“神の子”が勝手に円満完全であるわけがなく、
神様が完全であってその“子”であるから
“子”も完全なのである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
【われわれの女の友だちのひとりは、それこそ好い実例である。多年にわたって彼女は人間社会から“退け者”にされているように感じて、はなはだ淋しい、不愉快な生活を送っていたのであった。ところが彼女は“科学的祈り”について学習する機会をもったのである。彼女は“祈り”を通して人生と調和ある関係に自分をあらしめることができるということを知ったのだった。過去を顧みるならば、彼女が、遥か彼方の天にまします神に祈っておった前々の時には、却って手の届かない感じで却って寂寥の感じを増した位であったが、今や彼女は、彼女が居る“今此処”に“愛の神が現前し給う”と感じて“神を直接体験する”というような感じで祈ることを知ったのであった。彼女はそのような“神との一体感”の中に自己を浸透させるような祈りをするようになった。すると、徐々にではあるが、過去にあった如き“人生から疎外されている”というような感じが剥落して行ったのである。彼女の心にそのような完全な内的変化が起ったとき、彼女の友達が外から見たら彼女は全く別人になってしまっていた。それだから友だちはみな「何かあなたに起ったのですか」と不思議がって尋ねるほどになったのだった。】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます