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2020年8月勉強会資料第2集

2020-08-30 18:27:17 | 日記
「神なる人の理念」が現象人間である
2020/08/19
「神なる人の理念」が現象人間であることを
明確にご説明下さっている本日の引用文は
大事な真理であると思ったので
転載いたします。
(参考 真理第二巻 第13章 希望を実現する鍵)
 <想念・意思・理念・創造力>
「想念」は創造の事物の「型」をつくり、意思は、その「型」を神の力に引き渡すまで一定時間持続する為の力である。意思の力が創造するのだと思って、いくら力んで見ても、意思の力は睡眠中には働くことは出来ないのである。しかも睡眠中にも生理作用は営まれ、旧組織は分解して排泄され、新組織が体内で創造されつつあるのである。一定の「創造の型」(想念)に従って神の力が働いているのである。その「創造の型」とは、「神の像(かたち)につくりたまえり」と創世記にあるところの「神なる人の理念」である。その理念をそのままの写しであれば完全に健康なる人間としてあらわれるのであるが、そこに人間の不完全な想念が二重写しされる時病気となって現れる。

彼らは友人のなくなる事や、隣人の毀誉褒貶や、或いは昔なじみの交際の甘さを失うことを恐れている。本当は信仰の人には真の損失はないものなのである。
22020//8/17020/08/19
実相のありかに気付いた人でも
信仰の一筋道に進むことを恐れるのである。
友人のなくなる事や、隣人の毀誉褒貶や、或いは昔なじみの交際の甘さを失うことを恐れている。
もっと大事な根本的なものがあると気付く必要がある。
結局真の信仰によって失うものは
何一つないのである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【世界は今信仰の人を求めている。この世ながらの神の国は唯信仰の鍵によってのみ得られるのである。しかも多くの人々は、この鍵を用いて神の国に入ることを、恐れたり羞かしがったりしているのである。それ故彼等は神より与えられる人間としての全力を発揮することができないのである。彼らは友人のなくなる事や、隣人の毀誉褒貶や、或いは昔なじみの交際の甘さを失うことを恐れている。そして、彼らがこの天国に入った時には彼らの失うた損失全部を償うて尚あまりあるものが見出されることをさとらないのである。本当は信仰の人には真の損失はないものなのである。】


“我の慢心”を落とし切れれば“神の子”即ち本当の神さまの子ども(神)になり、因縁因果を超えられると教えてくれた小山伊松先生。
2020/8/25
用賀先心道場を建設され世田谷区の光明化運動の中心であられた、
世田谷区用賀の小山伊松講師は
世田谷を代表する用賀の地方講師でした。
東京を代表する霊的中心者でもありました。
いつでも依頼があれば
出かけて診察することを町医者としてのご自身の生活信条とし、
医師として信仰者としての生活に命をかけておられましたので、
行動なさることすべてに迫力がありました。
偉ぶるところは全くない方で
静かな影響力は抜群でした。
「私は谷口先生と心中するつもりで信仰に生きた」
とおっしゃっていたのを覚えています。
小山先生は口数多い方ではなかったですが、
なさることすべてが神に導かれていたので、
先生の姿、生き様そのものが、
まさに伝道でありました。
うしろ姿の伝道者です。
小山先生に私が病気になり切羽詰まった時に、
小山先生をご自宅の前に見つけて
やっかいな病気になってしまったことを告げ、
これは治るでしょうか、と質問をしました。
そうしたら、
「それはどこまで“我”を落とせるかどうか、です」
とお答えになったのです。
たった5分間のご指導でした。
でも今考えてみると、
小山先生のお答えは正解でありました。
どこまで“我の慢心”を落として
神の心に立て替えることができるかが
“神の子”になれるかどうかの分岐点であるからです。
また小山先生はある幹部の男性信者が病気の苦痛を訴えた時、
「○○さん、それは因縁を超越してしまえばいいのですよ」
とお答えになりました。
要するに実相超入で
心配の無い生活に入れますよ、
というお答えでありました。
実相を顕わした方だから言える
一言の解答でした。
神さまになってしまえば
病気や不幸などないのですから・・・。
この小山先生のご指導内容からわかることは、
唯神実相哲学の目的は、
人間が実際に“神”に成ることなのであります。
ただ真理をしらない普通の患者さんには、
「お医者さんを神さまと思って病気を治しなさい」
とご指導なさっていて、
神に導かれた医学指導をなさっていました。
生長の家のみ教えの目的は
実際に人間が“神の子”つまり神になることなのであり、
これを外したら一切の人生苦を救うという目的は
不可能です。
小山伊松先生は
実際に“神の子”を顕わされ、
神に成られた数少ない地方講師でした。


本当に「内」を神の国と思わないとダメです。
2020/8/24
神想観で大事なことは、
イエスが説いた「内なる神の許に往く」ことです。
つまり祈りの姿勢をとり目をつむったら
そこはもう神の国であり、
神さまがそこにいるのです。
ということは目をつむらなくたって
ここは見えない神の国であるのです。
「我れ今五官の世界をさって実相の世界に入る」と言うくせに、
ここが神の国と思っていないのは、
マンネリでやっているからなのです。
だから目をつむったらここは神の国と
本気で思うことです。
そしてその神の国に自分の本体“神の子”“実相”がいます。
もともといます。
「神の言」は初めから存在し、「神の言」の肉化である「神の子」もいます。
その自分の本体である“神の子”を「神の子円満完全」と念じて存在を認めうけいれます。
何故神の許に”神の子”がいるのかの理由はヨハネ伝の
「初めに言あり。言は神とともにあり。言は神なりき。」
「言肉となりて我等のうちに宿り給えり」
が根拠です。「甘露の法雨」と同じです。
だから吾等人間の本体“神の子”は“神”の許にいるのです。
だから目をつむればそこは神の国であり、
“神の子”はそこにいます。
だから「神の子円満完全」「実相円満完全」と観じるのは、
実際にそうであるからです。
誰に対して祈るのかというと神さまに対して観じるのです。
本当にそうだと思えば現象に神が顕われます。

誰かが、瀕死のこの赤ちゃんを謂わば人身御供として祭壇の上にお供えして神様のみ心に委ねてしまったらと言った。・・・(全托のやり方)
202020/8/2320/08/23
私は今日の引用文を見て、
少しも人間的執着なく完全に執着の把みを放って神委せの解脱心境になるこのやり方が、
本当の全托と理解した。
善なる愛なる神のみ心に
結果を考えず、
お任せするのが全托である。
私投稿者は“神の子”が円満完全である、ということを
神の御心に献げて(結果は考えず)しまう神想観をしている。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春著)
【この赤ちゃんは科学的見地からは妊娠しない筈の両親が真に奇蹟的に妊娠して生まれたところの謂わば神からの授かりものであったから、親のルーイズ・エグレストンさん始め、教会の牧師たちは皆、神が癒し給うにちがいないと感じていた。皆の者はこの幼い女の子が、癒されるために絶えず祈りつづけた。到頭、これ以上この幼児は生きることは不可能だと見える状態にまでなったとき、誰かが、あのアブラハムがイサークを悦んで神に献げたと同じように、この赤ちゃんを謂わば人身御供として祭壇の上にお供えして神様に差し上げてしまったらと言った。若いこの子の両親はこの子を生かして置きたくて仕方がないものであるから、その子を神さまに差し上げてしまうということは真に神に対する全托の信仰を必要とするのであった。それは神に無条件降伏して夫婦の全ての希望と願いとを神にゆだねるという象徴的行事であった。それゆえにこの象徴的行事はこの教会に集まっている信者にとっては非常に意義ある行為であったのである。それで彼らは実際にこの瀕死の赤ちゃんを祭壇に奉安した。そして、彼女の父なる神の御心におまかせして、皆寄って「御心の如くならしめ給え」と祈ったのであった。奇蹟がその時起ったのだ。その瞬間からこの赤ちゃんは健康を快復し始めたのであった。エグレストン夫人の報告によると、彼女がリッチモンドからウエスト・コーストに来る直前、彼女は当時の赤ちゃんだった此の娘の顔を見て別れを告げて来たのであったが、今や彼女は健康で活発な、どこから見ても完全な9歳の少女になっているのだということであった。】

諸君は独立不羈となり何物にも凭(よ)りかかってはならない。何物かに凭りかかるならば、相手の動きによって、諸君の幸福は浮雲のようなものとなる。
2020/8/26
吾々は自己の内なる(神の子)以外の何物にも凭(よ)りかかってはならないのである。
もし吾々が何物かに凭りかかるならば、
相手の動きによって
吾等の幸福は浮草のようなものになるのである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【諸君は自己の幸福を他の人もしくは物から得ようと、外物に依頼心をおこしている間は、最大の幸福は得られないのである。諸君は独立不羈となり、何物にも凭(よ)りかかってはならない。もし諸君が何物かに凭りかかっているならば、凭りかかっている相手の動きによって、諸君の幸福は浮雲のようなものとなるだろう。諸君は境遇の奴隷となるだろう。諸君は外なる友達や事物がなくても生活出来ると云う事を知った時、はじめて友達をしみじみ味わい、事物をしみじみ味わうことが出来るのである。】

谷口雅春先生の目的と意図は、私たち一人ひとりの心の変革により、この世に本当にそうであるところの“神の国”を顕わすことにあった。
2020/8/27
谷口雅春先生は、
自分のお書きになった数多くのご文章を
お神輿にして担いでまわり、
自分の主張を正当化する手段として使うがために、
いのちがけでご文章を執筆なさったわけではない。
もう一度明確化すると
雅春先生の意図されたことは
「神の子・神の国」実現一つであって、
真理の実現自体である。
現象変革運動ではないのである。
現象世界は本来“神の国”なのだから
また人間は“神と偕に歩む神の子”なのだから
そのことに気付くために『生命の実相』『真理』の聖典を著されたのであった。
人間の心の内面に“父なる神”が君臨しているので、
その「内なる神の国に往きそこに自己の本体である“神の子”を見出し認める」ことによって
吾等一人一人が“神の子”即ち実際に神に成ることで
あらゆる人生苦を吾等自らが実現して行くことを
終生願われていたのであった。
言ってみれば“心の在り方の変革”という内面的な課題の達成であるのである。
しかし多くの人は「心変革の問題」とは取らず、
現象問題解決策の根拠として雅春先生のご文章を用いている。
「真理は汝を自由ならしめん」というイエスの言葉に
人類光明化の鍵があるのである。
コロナウィルス肺炎の問題も
現象的な解釈は唯神実相哲学ではなく、
これは人々の心が「神から離れ神に向かうか」という
ただ一つの信仰上の問題として生じているのだ。
人類の業の自壊作用ケミカライゼーションだ。
現象的な“コロナウィルスとの和解”などという解決策は、
実相独在という“見えない動的実体“神の国”が実在しているという真理とはほど遠い。

“想念の自由選択”という最高のものを人間は神より与えられたのである。しかし人は“神と神の子”との関係を踏まえて“想念の自由”を使わねばならない。
2020/8/30
「想念の自由選択」という最高のものを
人間は神より与えられたのである。
犬や猫と比べてみればわかるように
これほど素晴らしいものはないのである。
河原でバーベキューもできるし、
神想観を何回だってすることもできる。
その代わりに誤れることを思考し、
神との結合に躓く時は、
その自由の代償として
苦痛を背負わねばならないのである。
人間の謝れる想念は
神自身と神の無限智との調和ある冥合が
成り立たないために起るのである。
それはつまり、
神と神の子との関係を踏まえて
想念の自由を使う必要があるということである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【神が人間に想念の自由選択を与えない位ならば、彼は人間を一片の機械としてしまったであろう。善なる軌道の外には全然走ることの出来ないように設計されたものは一個の無機物たる機関車に過ぎない。しかし人間は彼より自由を与えられたのである。その代わりに誤れることを思考し、神との結合に躓く時は、その自由の代償として苦痛を背負わねばならないのである。そうして人間の謝れる想念は神自身と神の無限智との調和ある冥合が成り立たないために起るのである。何故なら、人間がみずから好んで自己限定を行い、神と波長を合わせないとき、神の無限智を自己にあらわすことが出来ない。彼は直覚によって導かれることが出来ない。これに反して神より来る直覚こそ、苦痛と不幸とに吾々を陥れるところの誤れる選択を是正してくれるものなのである。】

人間は重複創造であることそして万物の本体は神であることを伝えるのが使命
2020/8/28
<人間は重複創造である。しかし本当にあるものは見えない神であること。このことを伝えるのが生長の家の使命>
*人間は見えないいのち“神の子”“神のイメージとして造られた神の肖像”であり、神の許に存在している。
「万物はこれ神の心・万物はこれ神のコトバ」
「コトバ肉となりて我等の内に宿り給えり」
これはプラトンのいう「神聖原理」であり、神の想念イデア、理念である。理想世界である。
*その神の理念が現象化したのが肉体人間。
肉体人間は理念人間が、時間空間の表現舞台に物質的形態をまとい現れたもの。現象世界は実相理念「神の子・神の国」を現象表現する舞台として設定された。実相世界の素晴らしさを触知する喜びを人間及び神が味わうため本来ない時間空間世界が設定された。
*だから人間は霊と物質との重複創造。
アサガオは物質とアサガオの霊との重複創造。
人間は肉体人間と実相人間との重複創造。
しかし人間は現象世界に誕生する時は霊的自覚を失う。
本来神であるものが物質化して物質世界で実相の表現を行うのであり、そのためには物質を生み出す霊を心で自覚しないと霊(実相)の表現化ができない。物質世界は実相世界に即してはいるが、次元の異なる所にある。
*肉体人間の特色は現象世界で想念の自由を与えられていること。この想念の自由のおかげで人間は思った通りに世界をつくれるのである。心と言葉と行動で、思うとおりに現象世界を創造できる。しかし自由に想念する内容には良いもの好ましくないものと両方ある。想念の間違いの結果は心の法則(鏡の原理)で修正できる。また結果の良し悪しは神に責任はない。神の子の責任だ。そもそも神に不幸など存在しないし、現象世界は実在ではない。
*しかし人間が重複創造なることに気付かないならば、実在でない苦しみを現象人間として現象的に受ける場合もある。現象世界に誕生した時から、人間は肉体であるという錯誤の可能性を背負うこととなる。自由な想念の力を与えられたと同時に、物質世界にいると勘違いする可能性をも背負うこととなる。人間は重複創造であり、しかし実は「神の子」であり、「神の国」に居るのだという人間の存在のあり方を人に教える必要がある。
*この重複創造について伝えるために釈迦が現われ、イエスが現われ谷口雅春先生が出現した。
*生長の家の根本使命は人間は物質と霊との重複創造であるという存在の在り方を知らせ、しかし見えない神がすべての本体であることを人々に知らせ自覚させることにより、神の国さながらの天国的喜びを人間が実際に味わって生きることを可能とすることにある。




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