(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第12章>
(12・1―8)安息日の労働
(1)そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
(2)パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
(3)そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
(4)すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
(5)また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは、安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことは無いのか。
(6)あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
(7)『わたしが好むのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
(8)人の子は安息日の主である」。
(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・この章はイエスの行為に対し、パリサイ人が難詰し、それにイエスが答える会話の形式で、イエスの説教の範例が記されている。福音書の論争記事の一つである。1~8節は安息日についての論争。
(1)安息日が論争の原因になったのは、安息日は神のものであり、神とイスラエルとの契約関係のしるしだからである。ゆえに割礼と同様、安息日を汚すことは神との契約を破壊することで、死をもって罰せられるべきものとされていた。それは仕事をやめる日であった。イエスの弟子は麦畑の中を通りながら、思わず穂を摘んで食べた。
(2)パリサイ人は、イエスの弟子の行為は、明らかに安息日の戒めの違反であると考えた。律法は旅人が他人の畑の穂を摘んで食べることをゆるしていた。しかしパリサイ人が非難したのはその日が安息日であったからである。彼らはイエスの弟子が穂を摘んで手をもむのを見て、安息日にしてはならぬ労働とみなして非難した。
(3)以下6節までイエスの弁明である。ダビデの故事と祭司の特例をとって弟子の行為を弁明された。ダビデと家臣とが神の家にはいって祭司のほか食べてはならぬ《供えのパン》を食べたことは、サム上21・1-6に記されている。「供えのパン」(出25・30)。
(5)祭司は当番のときは安息日でも働いた。彼らの務めは安息日の規定よりたいせつであったから。イエスは旧約の律法に精通していられた。
(6)安息日についてイエスのように言うことができるのは、イエスが安息日破懐者であるからではなく、《宮よりも大いなる者》であるからである。安息日に働くことをゆるす特例があることは、おそらくパリサイ人は知っていたであろう。しかし彼らはそれはあくまで特例であって、イエスの弟子の空腹ぐらいの程度では、この特例は適用されないと考えたであろう。しかしイエスには律法の特例に意味がなく、律法の精神を生かすことに意味があると考えられた。
(7)律法の精神は《あわれみであって、いけにえではない》。
パリサイ人がこの律法の精神を知っていたら、《罪のない者》すなわちイエスの弟子をとがめるようなことはしなかったであろう。
(9)イエスは安息日の主であるから、安息日の律法をも破懐することができるという意味ではなく、イエスは安息日の主であるから、律法が手段から目的にのしあがり、人間を見動きならぬものにすることはなくなり、かえって律法は、それを守る者のための救いになるという意味である。
<マタイによる福音書第12章>
(12・1―8)安息日の労働
(1)そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
(2)パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
(3)そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
(4)すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
(5)また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは、安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことは無いのか。
(6)あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
(7)『わたしが好むのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
(8)人の子は安息日の主である」。
(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・この章はイエスの行為に対し、パリサイ人が難詰し、それにイエスが答える会話の形式で、イエスの説教の範例が記されている。福音書の論争記事の一つである。1~8節は安息日についての論争。
(1)安息日が論争の原因になったのは、安息日は神のものであり、神とイスラエルとの契約関係のしるしだからである。ゆえに割礼と同様、安息日を汚すことは神との契約を破壊することで、死をもって罰せられるべきものとされていた。それは仕事をやめる日であった。イエスの弟子は麦畑の中を通りながら、思わず穂を摘んで食べた。
(2)パリサイ人は、イエスの弟子の行為は、明らかに安息日の戒めの違反であると考えた。律法は旅人が他人の畑の穂を摘んで食べることをゆるしていた。しかしパリサイ人が非難したのはその日が安息日であったからである。彼らはイエスの弟子が穂を摘んで手をもむのを見て、安息日にしてはならぬ労働とみなして非難した。
(3)以下6節までイエスの弁明である。ダビデの故事と祭司の特例をとって弟子の行為を弁明された。ダビデと家臣とが神の家にはいって祭司のほか食べてはならぬ《供えのパン》を食べたことは、サム上21・1-6に記されている。「供えのパン」(出25・30)。
(5)祭司は当番のときは安息日でも働いた。彼らの務めは安息日の規定よりたいせつであったから。イエスは旧約の律法に精通していられた。
(6)安息日についてイエスのように言うことができるのは、イエスが安息日破懐者であるからではなく、《宮よりも大いなる者》であるからである。安息日に働くことをゆるす特例があることは、おそらくパリサイ人は知っていたであろう。しかし彼らはそれはあくまで特例であって、イエスの弟子の空腹ぐらいの程度では、この特例は適用されないと考えたであろう。しかしイエスには律法の特例に意味がなく、律法の精神を生かすことに意味があると考えられた。
(7)律法の精神は《あわれみであって、いけにえではない》。
パリサイ人がこの律法の精神を知っていたら、《罪のない者》すなわちイエスの弟子をとがめるようなことはしなかったであろう。
(9)イエスは安息日の主であるから、安息日の律法をも破懐することができるという意味ではなく、イエスは安息日の主であるから、律法が手段から目的にのしあがり、人間を見動きならぬものにすることはなくなり、かえって律法は、それを守る者のための救いになるという意味である。
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