相即相入の真理は少し複雑なので、
最初に骨子を取り上げてみた。
・事物の本体は「想念」である。
・「心」はその「想念」に形象の装いを着せて顕現するのである。
・「想念」は振動(バイブレーション)であり、薔薇もまた振動である。
・客観的にはそこには振動即ち形があって、それを自分の肉体的感覚が捉えて記録するのである。
・主観的には自分の意識の内に薔薇の観念が喚起されたのである。
・バラの観念は自分の視覚がそれを捉える以前から、ズッと其処にあったのである。
・薔薇の観念は絶対者の意識である。
・客観的薔薇より来たる振動は、観念連合によって自分は薔薇を見ることになるのである。
(心と運命 谷口雅春)
【吾々の感覚を刺激して注意を喚び起した客観的なる薔薇の花が、「実在」であるか、それに相応ずる主観的心象が「「実在」であるか、両者とも「実在」であるか、それともどちらも「実在」ではないのか? と云う疑問が生ずる。既に述べたる真理の光に照らして観れば、此れに対する答えは、別にむつかしくないのである。事物の本体は「想念」である。そしてその本源は「心」或いは「意識」である。「心」はその「想念」に形象の装いを着せて顕現するのである。ここに「想念」は薔薇として顕れたのであった。併し「想念」は振動(バイブレーション)であり、薔薇もまた振動である。客観的にはそこには振動即ち形があって、それを自分の肉体的感覚が捉えて記録するのである。主観的には自分の意識の内に薔薇の観念が喚起されたのである。バラの観念は自分の視覚がそれを捉える以前から、ズッと其処にあったのである・・・と云うのは、それは絶対者の意識であるからである。併しながら、自分が薔薇を見る瞬間までは、云わば吾が意識はその点に関して眠っていたのである。客観的薔薇より来たる振動は、観念連合によって自分の心の内にそれと同じき心象を目覚めしむる観念波であるから、自分は薔薇を見る事が出来るのである。さて、薔薇を見、或いは認める自分の「吾」は、それを想念又は観念として感ずるのである。外なる観念実在は内なる観念を刺激したのであって、吾々が薔薇をみとめると云うとき、その過程を理解するに、何等の困難も感じられないのである。】
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