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「高天原」―彼岸―実相の世界というものはすべて物質ではなく霊的存在であり、相即相入しており、別々のようだが互いに一でありみんな一つである。

2020-07-25 11:08:10 | 日記
谷口雅春先生は
“生命の実相”を知った人たちに
して欲しいことを
次のように述べておられます。
「そういう菩薩たちが集まって来て、そうして、哲学中でも最も難解な一番高い実相哲学を、もっとも判り易く、それを聞かして頂いて悟りを開く、そしてただ自分が聞いて悟るというだけじゃなくて、それを「己れ未だ度(わた)らざるに他の人達を度(わた)す」と云うハタラキをして頂くのであります。」
これを叶えて差し上げるのが、
雅春先生のご恩に報いるということでありますので、
私はこれだけを引き続きやってまいります。
さて、現象世界では物とか人は別々に別れているようにみえていても、
実相世界は自他一体の仏世界であります。
みんな一つの存在なのです。
これを相即相入といいます。
(真理第7巻 谷口雅春)
第一章 相即相入と生使命菩薩
<華厳の相即相入の哲学>(その1)
【そういう菩薩たちが集まって来て、そうして、哲学中でも最も難解な一番高い実相哲学を、もっとも判り易く、それを聞かして頂いて悟りを開く、そしてただ自分が聞いて悟るというだけじゃなくて、それを「己れ未だ度(わた)らざるに他の人達を度(わた)す」と云うハタラキをして頂くのであります。度すというのは彼岸に度す、彼岸とは実相の世界のことであります。実相の世界を「彼岸」と言い、現象の世界を「此岸」と言います。此方(こなた)の岸、即ち現象世界におりながら、ここがこのまま実相の世界であると自覚した人が、すなわち彼岸に度った人であるというわけであります。そして彼岸に度るところの方法に六つあると言って釈迦牟尼如来が「六波羅蜜」とこう言われたのであります。波羅蜜の「波羅」というのは「彼岸」ということです。これはサンスクリット語でありますけれども、日本の語源にも、やはり良く似ております。神道で、実相世界のことを高天原というあの「原」であります。その「高天原」―彼岸―実相の世界というものは、実に不思議なる世界で、そこにある事々物々はすべて物質ではなく霊的存在であり、相即相入の世界。相即相入、互いに一つなのです。すべての人間が別々のように見えておるけれどもみんな一つである。】

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