鏡に映る映像を見てそれを本当の自分と勘違いしている人間たち
現象が実相化している姿が
現象世界である。
現象は実相の展開だから、
存在の次元が異なるのである。
だから人は現象を物とみて生きるということは、
本物の月自身が「水中の月」を見ているようなものである。
本来“神の子”であるものが
“神の子”の映像を見て
それを自分だと勘違いしている。
現象の「見える」ものを否定すれば、
カントの言う「物自体」が見えてくる。
(正法眼蔵を読む如し 諸悪莫作の巻 谷口清超
<「莫作(まくさ)」の現成>
いわば人が人をみるのであり、山が山を見る。そこに何一つ作為的なものはない。そのまま自然に全てが生きて、見合っている。それは「諸悪莫作」なのだ。この全体がピタリと応答し合っている道理が、「諸悪莫作」なのである。これ即ち曹山が「仏の真法身は、なお虚空のごとし、物に応じて形を現すこと、水中の月の如し」といった趣きである。これが「諸悪莫作」だ。どこにも引っかかりも、とどこおりもない。かくて「悪いことをするな」となる。実相の「諸悪莫作」が現れて、現象の「悪いことをしない」となるのである。まるで虚空のようなものだ。左を拍っても右を拍っても自由自在、何の滞りもない。まるで水中の月のようなものだ。どこにもひっかからず、滞(とどこお)らない。これ即ち「諸悪莫作」がまさに現成する姿であるということなのである。
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