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イエスの喜びと招き(解説含む)

2016-05-07 20:01:54 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第11章>
(11・25―30)イエスの喜びと招き
(25)そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
(26)父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
(27)すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
(28)すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
(29)わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
(30)わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・ガリラヤ人の不信にもかかわらず、その中からイエスに従ったあることを神に感謝された。この項は25、26節 イエスの感謝、27節 イエスの自意識、28~30節 イエスの招きの三つの部分に分けることができる。
・25 前記の町々の人々が理解することのできなかった《これらの事》すなわち、イエスの言行が、ある人たちによって受け入れられた。その人が《知恵のある者や賢い者》すなわち、パリサイ人や学者ではなく、《幼な子》すなわち、漁夫や取税人や病人など無学な庶民であった。このことは《まことにみこころにかなった事》(26節)で、その理由はとうてい人知ではとらえることができない。ここにイエスの神への感謝の理由がある。
・27 イエスは父なる神に対し唯一の子であることを、共観福音書中これほど明白に表明されているところはほかにない。(ヨハネによる福音書には多い)。《すべての事》イエスの先在と受肉の真理を背景にしたイエスの伝道のつとめはすべて神より任せられたものである。《父を知る者は》イエスの父なる神は哲学者また神秘主義者の神でなく、イエスの人格において啓示された神である。《子が選んだ者》次にイエスにおいて啓示された父なる神を知る手だては「選び」である。イエスの啓示はその中に御子の選びがあるから、われわれにも父を知るということがおきるのである。
・28以下30節までは本書にだけ記されてある、われわれの胸にひびくイエスの言葉。《すべて重荷を》律法学者やパリサイ人が国民の肩に課した律法の重圧であり、人生一般の労苦である。ヘブル人にとって律法は、詩篇119篇に記されているように、本来は人を悪より遠ざけ、生命の道に導くところの喜ばしいものであったが、律法は支配者の手の中で、庶民を彼らの意に従わせる道具にされるようになった。《あなたがたを休ませてあげよう》イエスは仕えられる人でなく、仕える人であったから。
・29 イエスの招きはパリサイ人の招きと違い、負いやすい《くびき》である。ラビたちはよく律法をくびきにたとえ、律法のくびきは、人をこの世の国と心づかいから自由にすると語ったが、実際は彼らの律法は負いにくいものであった。イエスのくびきは条文の端にとらわれることでなく「公平とあわれみと忠実」であった。
・30 イエスのくびきは山上の説法のようにきびしいが、それを律法としてでなく、福音として受け取る人には《負いやすく》《軽い》ものとなり、イエスのくびきはわれわれの魂に休みを与える。

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