実相(“見えない”神の子・神の国)と現象の関係
令和元年5月1日
谷口雅春先生のお悟りを『生命の実相』20巻から
復習する。
【「実相とは神である。“ある”ものはただ神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。】
雅春先生がここで「神の心」とお書きになっているのは
たった今この現象世界の奥に存在している
実相世界(見えないが実在である神の理念)のことであり、
現象から色や形を取っ払ったら
でもそこに残る純粋形相のことである。
これは「神の心」であり、
永遠向上、無限向上、円満完全大調和であって、
神性、仏性充満し
現象世界のあらゆる事物に相応していて
それらを表現するもとになるところの「神の言」世界である。
また雅春先生が「神の心の顕現」とお書きになっているのは
現象世界のことであり、
「神の心」が時間空間世界に
人間の五官を介して表現されている
世界である。
人間がストレートに神我を通して実相を現象化させれば、
実相が人間の我の心で歪められずに顕われ出るのである。
歪んで実相ならざるものが出ているように見えても
それは単なる実相の不在であって、
「実相即現象」という根本真理は
貫かれていることに変わりはない。
雅春先生が「これが実相だ」とお書きになっているのは、
「この実相と現象の在り方自体が、人間の生命の実の(本当の)相(すがた)ですよ」
ということである。
この真理を仏教は「色即是空、空即是色」と
説くのであるが、
雅春先生のお説きになっていることと同じである。
ただ仏教の説く「空」と言う言葉は
雅春先生もご指摘になっているように、
「真空妙有」のことなのだと補足する必要がある。
「空」と見えるものの奥に
「妙なる有(実相)」が存在しているということであって、
「色即是空」という言葉は
現象の奥に妙なる実在「神の心」が実在している、
という意味である。
現象は実相の反映であるという意味から言えば
「現象即実相」「実相即現象」と
言えるのである。
現象に実相の理念「神の心」は
恒に貫かれている、のである。
この見える世界の奥というか裏というか、背後に、
実相世界があるということは
いったんは
現象世界をないとして
否定しなければならない。
でも真理が分ってきて、
雅春先生の
【「実相とは神である。“ある”ものはただ神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。】
というお悟りを理解できたときに
現象世界がどんな状態であるにせよ、
この現象の奥にある“神の子”“実相世界”が真実世界との
観方をすることができるようになり、
つまり「信」と「観」が
成就するということになるのである。
令和元年5月1日
谷口雅春先生のお悟りを『生命の実相』20巻から
復習する。
【「実相とは神である。“ある”ものはただ神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。】
雅春先生がここで「神の心」とお書きになっているのは
たった今この現象世界の奥に存在している
実相世界(見えないが実在である神の理念)のことであり、
現象から色や形を取っ払ったら
でもそこに残る純粋形相のことである。
これは「神の心」であり、
永遠向上、無限向上、円満完全大調和であって、
神性、仏性充満し
現象世界のあらゆる事物に相応していて
それらを表現するもとになるところの「神の言」世界である。
また雅春先生が「神の心の顕現」とお書きになっているのは
現象世界のことであり、
「神の心」が時間空間世界に
人間の五官を介して表現されている
世界である。
人間がストレートに神我を通して実相を現象化させれば、
実相が人間の我の心で歪められずに顕われ出るのである。
歪んで実相ならざるものが出ているように見えても
それは単なる実相の不在であって、
「実相即現象」という根本真理は
貫かれていることに変わりはない。
雅春先生が「これが実相だ」とお書きになっているのは、
「この実相と現象の在り方自体が、人間の生命の実の(本当の)相(すがた)ですよ」
ということである。
この真理を仏教は「色即是空、空即是色」と
説くのであるが、
雅春先生のお説きになっていることと同じである。
ただ仏教の説く「空」と言う言葉は
雅春先生もご指摘になっているように、
「真空妙有」のことなのだと補足する必要がある。
「空」と見えるものの奥に
「妙なる有(実相)」が存在しているということであって、
「色即是空」という言葉は
現象の奥に妙なる実在「神の心」が実在している、
という意味である。
現象は実相の反映であるという意味から言えば
「現象即実相」「実相即現象」と
言えるのである。
現象に実相の理念「神の心」は
恒に貫かれている、のである。
この見える世界の奥というか裏というか、背後に、
実相世界があるということは
いったんは
現象世界をないとして
否定しなければならない。
でも真理が分ってきて、
雅春先生の
【「実相とは神である。“ある”ものはただ神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。】
というお悟りを理解できたときに
現象世界がどんな状態であるにせよ、
この現象の奥にある“神の子”“実相世界”が真実世界との
観方をすることができるようになり、
つまり「信」と「観」が
成就するということになるのである。
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