私は
やっと
この現象の世において、
生の実感をもって
生活することが
できるようになってきた。
でも多くの人は
現象人生を
物質あると思っていると思っているが故に
その存在を
少しも疑わずに生きている。
こういう人は
勿論生の実感があると言うと思う。
でも
物質ありと思う人の生の実感は
本物ではないのである。
物質はナイ(非実在)であるからだ。
物質がナイ(非実在)であると疑い始めた時から、
この現象世界に生活することに
生の充実感をもつことが
できなくなってしまう。
私自身が現象ナシの真理を知った時から
そうなってしまっていたのである。
自分が生きている足場(現象)が
不確かな頼りないものであるなら
生の意味自体が
揺らいでくる。
でもやっと私は
この現象の世に生きることに
確かさの意識を持ち始めたというのは、
この世が実は神の国であり、
自分が神の子であるという自覚が
出てきたからに
他ならない。
この自覚ができてくると、
生きることは
「神の国に神の子が生きる」ことだから、
生の充実意識を
得るのである。
やっと
この現象の世において、
生の実感をもって
生活することが
できるようになってきた。
でも多くの人は
現象人生を
物質あると思っていると思っているが故に
その存在を
少しも疑わずに生きている。
こういう人は
勿論生の実感があると言うと思う。
でも
物質ありと思う人の生の実感は
本物ではないのである。
物質はナイ(非実在)であるからだ。
物質がナイ(非実在)であると疑い始めた時から、
この現象世界に生活することに
生の充実感をもつことが
できなくなってしまう。
私自身が現象ナシの真理を知った時から
そうなってしまっていたのである。
自分が生きている足場(現象)が
不確かな頼りないものであるなら
生の意味自体が
揺らいでくる。
でもやっと私は
この現象の世に生きることに
確かさの意識を持ち始めたというのは、
この世が実は神の国であり、
自分が神の子であるという自覚が
出てきたからに
他ならない。
この自覚ができてくると、
生きることは
「神の国に神の子が生きる」ことだから、
生の充実意識を
得るのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます