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始めから“神の子”は“神”と共に在るという意識で“神の子”を観じる

2019-08-12 08:35:01 | 日記

「神の子円満完全」「実相円満完全」と観じるとき、

‟神の子“が円満完全であるのは、

まさに“神の子”は神がお造りになった“神の肖像”(イメージ)であるから

円満完全なのであり、神が発した

“神の言”であるから

円満完全なのである。

つまり始めから“神の子”は“神”と共に在るのであって、

父なる神と離れていて円満完全であるわけではない、

であるから「神の子円弧完全」と念じ

“神の子”を観じる時には

神と共にある“神の子”を観じるわけである。

この神と共にあるというか

神の許にいる“神の子”を観じるという意識で

神想観を行なうのである。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)

【そして「われと父とは一体なり」の意識である。“この心”を自己の内にあらしめるとき、人は光り輝く完全の衣装を身にまとうように、霊的想念を身にまとって護られていることになるのである。われ今、キリストの権威をもって神癒の言葉を語る。このとき、神の完全さが、わが完全さとなり、その完全の光がわが見るすべてのものの上に輝くことになるのである。「光はすべての人を照らす」と聖書にある。その光がわが世界と宇宙とを照り輝かすことになるのである。宇宙には唯一つの生命があり、それが“神の生命”なのである。そしてその生命は未だかつて病気したことも、苦しんだこともなく、未だかつて完全さを失ったこともないのである。その完全なる生命がわたしの生命であり、わが愛する者の生命である。「すべて善し」と神は仰せられた、そしてその如くあるのである。】

 

 


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