いったん「物質非実在」ということに
気がついた私たちは
もう環境の奴隷になるのは
ご免という気持だ。
本当の自由をつかみたいと
いうことである。
クリスチャン・サイエンスの理論は
神癒をきっかけに現象世界離脱するという
哲学理論であるだけに
現象世界超脱ということについては
完璧に近い見事な理論と方法論をもっている。
これがイエス・キリストの説教内容なのだ。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【『マタイ伝』第7章20節には「然(さ)らばその果(み)によりて彼らを知るべし」とあるのである。本書に於いて、著者の意図するところは、人間は自己の消極的否定的な想念によって、いつまでも自縄自縛される必要はないのであり、自分が真理を知らなかったために自分自身に課し来たった周囲の条件や環境の奴隷として甘んじている必要はないのであるということを読者に示さんがためである。
「人間は環境の奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」とベンジャミン・ディズレーリはいったのである。聖パウロは「キリストは自由を得させん為に我らを釈(と)き放ちたまえり。されば堅く立ちて、再び奴隷の軛(くびき)に繋がるな」(ガラテヤ書第5章1節)といっているのである。ここにいう“自由”とは“霊的自由”であり“神の子としての自由”である。わたし達すべては、今こそ立ち止まりて、脚下照顧し、人間は環境の奴隷としてその絆(きずな)に縛らるべきものでもなければ、人間関係をも含む色々の条件にも屈従しなければならぬような者ではないことを想起せよ。然り、時には、肉眼には如何にも現実に存在するかのように見える肉体の症状にさえも屈従して奴隷の絆に繋がれる必要はないものなのである。】
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