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「天の父われに在して、父と子とは一体なり」は神への無条件降伏と全托から生れる。だがこれに至るにはやっかいな無の関門を通り抜ける必要がある。

2020-05-13 12:15:35 | 日記

人間の力では何もできないから

全てを無条件降伏して神に委ねる心境になって、

神の子の自覚が出始めるというのは

本当だと思う。

だが下の引用文でも書かれているが、

“肉体の否定”とうことが容易ではない。

時間・空間は本当は存在せずと思えるには

肉体を十字架にかける必要があるからだ。

多くの人は

ここに難関がある。

無門関である。

ここを通過する人は、

間断なき祈り、というのか、

祈りが人間向上のカギであると気づくことになる。

まずは現象世界全体が「自分のいのち」の振動であると、

本当に思える必要がある。

(如意自在の生活365章 谷口雅春 日本教文社)

【「天の父われに在して御業を成さしめ給うなり」ということができる境地に達するならば、「人間・神の子」の実相の自覚は、“神の子”すなわち“天の父”の自覚となるのである。ここに「父と子とは一体なり」の自覚が出て来るのである。「即身成仏」すなわち「わたしがこの儘、仏であり、如来である」という自覚が出て来るのである。これをキリスト教的に言うならば、「父と子とは一体なり、子は父であり、父は子であり、人間は神であり、神は人間である」ということになるのである。しかしこの自覚は、“肉体の否定”すなわち「われみずからにては何事をもなし得ず」の否定を通してのみ得たる自覚でなければ、「肉体が神であり」ということになり、増長慢の寝言になってしまうのである。】

 


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