信ずるのは“実相”
2018/9/6
神想観では神に対座します。
神抜きの神想観では我の神想観になるので
あくまでも善なる愛なる神様と一対一(全)で祈るのです。
信ずるものは“実相”の「円満完全」です。
“実相”を祈っても充実感が得られない時には
自分を実相に全托してしまうといいです。
無条件降伏です。
気持がスッと楽になり、
安心感に包まれると思います。
(参考 すべてを癒やす道 藤原敏之 日本教文社)
【(省略)だから妊娠中の胎教や先祖供養のやり方や神想観などで、心があせり動揺し迷うのです。信ずるのは現象ではありません。神を信ずるのです。神のお創りになったままの本物(実相)を信ずるのです。五官によって知り得た現象(影)を信じようとしても、そんなものは信ずる対象ではありませんから信にならないのです。ありもしない影(現象)等信じられるはずもなく、また安心も得られません。】
“私だ”と思っていたのが私ではなくて、“神様であった”と気づくと“私”がなくなり神様だけになる
2018/9/6
(参考 すべてを癒やす道 藤原敏之 日本教文社)
私が自分というものが“いのち”であったと気づいたのが
現象がよくなるはじめでした。
7月末のことです。
“いのち”とは“神の子”であり“実相”であるとつながってきたのは、
新約ヨハネ伝と真空妙有の理解からでありました。
【信仰とはひと口でいえば“私だ”と思っていたのが私ではなくて、“神様であった”と気づくことであります。“無我”であり、“私”がなくなることです。私がないから神様だけとなります。これが生長の家の信仰であります。生長の家の教えは神一元の教えであり、神我一体の境地となることをいうのであります。神と我とが対立しているようなのは信仰ではありません。救われる自分も救って下さる神もない、我もなければ神もないという絶対の境地をいうのであります。それが信であります。】
実相以外は絶対に相手にしないと決定した心を信心という
2018/9/7
私はもう
目にみえない「本当にあるもの」以外は
信じないつもりです。
ついにここまで来ました。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【現象は影であって、影はどんなに現われているように見えても、無いと否定し切り、本当にあるもの(実相)だけを見つめて生きる生き方に徹するのであります。実相以外は絶対に相手にしないと決定した心を信心というのであります。】
自我的努力の一切を放棄
2018/9/8
自我的努力を一切放棄して
実相に全托することを心がけております。
そうすると無我になることから
神我が入ってくるのだと感じております。
つまり“神の子”になって行くと
思うのです。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【この(歎異抄)第二章は、親鸞上人の血と汗によって生命がけの努力の結果、自己の絶対無力であることを身体と生命で体得せられ、そこから生れた信仰内容を余すところなく表明せられたものであります。
信仰や救いが自分の努力や力によって左右せられるようなものではなく、自我的努力も判断も工夫も自分の力で出来る一切を放棄し、無為無策の境地になり切ることから生れるものであることを強調せられております。】
肉体といのちの関係の分り易い説明
2018/9/8
いのち(実相)と肉体の関係が
良く分る説明がありました。
ごらんください。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【自分の意志や力で行動したり仕事をしていると思っているのは、ちょうど印刷機械が動き仕事をしているのを、機械が自分の力で動き仕事をしていると考えちがいしているようなものであります。本当は、機械自身の力で動いているのではなく、動力源である電源にスイッチを入れ、機械に電流が流れ入ってくるから機械が動き出す如く、私達の肉体は人間が地上生活をするための道具にすぎないのであり、機械のようなものであって自分の力で生きる事も動くことも出来ないのであります。このことが、生命(魂)によって体得せられ一切を返却(帰命)することが信仰であります。南無阿弥陀仏とは、南無は帰命であり、無量寿(生き通し)の仏さまに命を帰すという意味であります。無量寿の仏さまに命を帰してしまうから私が私ではなくなり、そのまま生き通しの仏となるのであります。
この自覚によって顔も形も毛色も元のままでありますが、中味(心境)が変るのであります。信(仏)が心底にどっかりすわっておられて、間違わないようかじとりをしていて下さるのであります。そうして常に見守り給い、必要なものがあればその都度与えて下さり、これでは困るというようなことも一切なくなるのであります。】
生命の実相哲学で最も大事だが難しい所が「現象なし」です
2018/9/9
「現象なし」という真理の急所が
一番難しいところですが、
このことを分ってくると、
現象がないなら何があるのだ、ということで、
“神のいのち”の世界、
つまり神の理念世界(実相世界)が
浮かび出てくるのです。
現象は“本当にあるもの”ではなく
そこにあるのは”目に見えないいのち”の世界、
”神のいのち”のみある世界と
いうことになります。
現象も実相と同じく”神のいのち”の世界です。
お釈迦さんのお悟りの内容を分ろうとしているのだから
簡単でないのは当り前です。
現象世界は
”実相の心”の時間空間世界への反映ですが
一人一人の人間の心を通して反映されるので、
「実相の心」プラス「人の現象の心」なのであって
「目にみえるもの」から
そこに潜む「見えないもの」を感じ取らないと
”神の心”それ自体をキャッチできないです。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【釈尊の成道もそのお覚りの根本が一切の現象即ちありとしあらゆるものが全部無いと気付かれたのであります。一切は空であり、無であったとお覚りになったところから始まったのであります。それで仏教のことを空の哲学、無の哲学といっているのであります。有難いお経ほど、空とか無とかいう文字が多くつかわれているのもそのためであります。ここが一般常識と全然異なるところでありまして、余程注意しないとつい常識論にまどわされて相対の信となり、相対の救いにとどまり、方便化土の往生といって、本ものの報土である阿弥陀仏の浄土(完全な自由)の世界に生れ変わることが出来ないのであります。
この世の中のありとしあらゆるものは全部が無い、あるのはみんな仏だけであると覚られたのでありますから、常識論からすれば、難しいといえば難しいわけであります。一般人の立場からすれば、信仰とは完全な気狂いか馬鹿になることであります。】
影と見えるのはその奥に実体(光り)がある証拠
2018/9/10
影と見えるものがあるのは
その奥に実体がある証拠である。
となると、
生のみでなく
“死”ですら実体「いのち」が存在しているのです。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【つまり影と見えるのはその奥に実体(光り)がある証拠であります。光りがなければ影さえもうつりません。極楽に往くのは、何時からでもなく、元元から既に極楽に居りながら極楽に気づかないだけであります。極楽にいたと気付いた時から極楽であり、それを発見した時、現われるのであります。】
神様に無条件降伏
2018/9/11
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
私は
藤原先生のお書きになっているとおり、
神様に無条件降伏をしました。
やはりこのことがきっかけで
神様の力「実相」が
少しずつ顕われてきていると感じます。
【私は、み教えの前に無条件に降参するより以外にどうすることも出来なくて、自分だと思い込んでいた身体は勿論、生命までも投げ出して声をあげて、ただ泣く以外に手段も方法もなかったのであります。長い間、自分だと思い込んで勝手気ままな条件をつけて、悩んだり苦しんでいたのがとんでもない間違い(迷い)であった。神の生命を授かって生れ、神の恵みによってただ生かされていた事に目覚め、ただお詫びし、全面返還を断行したのであります。信仰とは、全面降伏であり、全面返還の断行によるのであります。本願他力による救済とは正にこのことであります。】
自性円満の自覚で神のスイッチが入る
2018/9/15
自分の“生命の実相”は神のいのちだから
そのままで円満完全なものなのだと、
腹の底から納得したときに、
神癒となると言われます。
簡単なようですが、
これが真理の自覚なのです。
(参考 あなたは必ず救われる 藤原敏之 日本教文社)
【生長の家の救いの根元となるところが、この第3頁に明らかにされているのであります。総説「七つの光明宣言」の解説に、次のようにお示し頂いております。
「生命の実相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」】
何故「生命の実相の自性円満の自覚」で神癒が起るのでしょうか。このことにつき、藤原先生は、次のようにお書きになっています。
【つまり、わが内に無限なる神の生命があり、それが本当の私であると自覚することは30ワットか60ワットの電球をつけて、暗い暗いと思っていたのが、電力は無限にあるとわかり、何百ワットかの電球に取りかえると、そのとたんに明るくなるのと同じであります。自分の中に、完全な生命を自覚することが宇宙さえも創造し、かくあらしめているところの大生命につながることなのであります。大生命の働きは無限であり、絶対力でありますから、そこから無限の力が与えられるから、どんな質(たち)のわるい病気でも癒されないということはないのであります。このことを神癒が現れるというのであります。】
藤原敏之先生に救われた
2018/9/6
たしか私が藤原敏之先生のご著書を
必死で学び始めたのは、
7月の始めからである。
また藤原先生のただ一つのユーチューブ講話を
毎日聞くようになったのは
7月中頃からである。
それ以来、
藤原先生の5冊のご著書と、録画の講話以外に
生命の実相の勉強として
使う資料はない。
もっとも
聖経『四部経』の一日10回読みと神想観は
私の修行の柱なので
これらを欠かすことはない。
藤原先生のご本を読み、
藤原先生のおっしゃることを実行することによって
私は救われてゆくという感触をもっている。
実相への絶対他力の「信」によって
自分は“救われずみ”という安心感が出来てきたのは
8月の始めからである。
神想観をしてもしなくても
常に神は見守り給うている。
そのことに気がつきさえすればよい、
と思うようになった。
そして現象を拝むのではなく
現象の奥にひそむ“いのち”(実相)を
拝むのであるとも思い始めた。
今では一日3回の神想観で
大丈夫となった。
一時は
一日に7回も8回もしないと
安心できない日々もあった。
藤原先生という雅春先生の真理の指導者を得たことが、
私をこのようにしてくれた。
藤原先生に感謝です。
心の間違い気づき徹底懺悔し“神の心”に置き換える
2018/9/14
現象に出ているものはすべて
過去に自分の心の描いたものが
消えるために出ているのである。
過去の心のまちがいを徹底懺悔し、
“神の心”に置き換えれば病気や不幸は消えると、
藤原先生はお書きになっています。
【何がそういう姿を現しているか。みんな心にあるんです。それ以外にあるんだと思ったら大間違いですよ。だから、どんなもんでも消えるんです。ないんだから。ないものはない。心にあるのが出ているだけだ。これだけです。だから出たのを見たら、ああ、私の心に間違いがあったと気がつけばよいのです。反省、内観、神様がいらっしゃるのに、自分が生きていると思った。神様の子を自分の子にして申し訳なかった。神様である主人を私の夫にして馬鹿にして申し訳なかった。そういう、気がつかなければならないところがあるはずです。ごまかしはだめですよ。出たということはあった証拠です。確かにあったから出た。素直にそれを認めて反省して内観して、ああ、申し訳ないと、徹底しておわびすること、懺悔、そうしたら、どんなに大きな問題でも消えるんですよ。すべてが心、これが三界唯心の所現という仏教の教え、谷口先生が運命も環境も心の影だと教えてくださった。だから心の間違いに気がつけばどんな病気も災難もことごとく消えるより仕方がないんだということです。】
心を変えれば映っているのが消える
2018/9/14
現象世界に本当にあるものは
目にみえない“神の心”つまり実相だけなのだから、
心を変えれば映っているのが消える、
本当にあるもの(実相)への「信」を強めればよいのである。
(参考 救われ済みの人生 藤原敏之 日本教文社)
【今身体に現れたり、家庭に現れたり、夫婦の間に現れたり、事業や商売に現れたり、困ったことになっとると、今の心配している出来ごとはみんな影だとわかったとき、その鏡の影をなおす方法はたった一つだけ、鏡を取り替えてもだめ、向きを変えても、こすってもだめ、それはあなたの心にあるものが映っているだけだから、心を変えれば映っているのが消えるのです。】
利己心の消去
2018/9/12
自己保存の本能、
唯識論でいう「末那識」というものは
取り去ることが不可能なものであるのか、
だとすれば人間は永遠に
“神の子”や“仏”になれないでしょう。
でも人間は
本来“神の子”であり“仏”でありますから
利己心など有っている存在では
ないのであります。
これが本当の真理なのです。
ですから人間は本来の“神の子”であり“仏”に戻ってしまえば、
自分で苦しむ類の利己心は無くなります。
自己保存の本能も浄められますから、
必要なものに限られるはずです。
自分にこんな醜い心があると苦しむ事態は
無くなるはずであります。
こういう心境は
絶対他力の信仰で
自分というものを神様にお返しして
“神の子”(つまり神)の自覚を得ることによって
達成されると
藤原先生のご講話から
読みとれることです。
人間が宇宙である
2018/9/16
人間の“生命の実相”が
自分という人間を通して時間・空間世界に
展開しているという真理を
正法眼蔵は
説いています。
全く同じことを
新約ヨハネ伝も書いているので、
これも書いて置きます。
(正法眼蔵を読む 身心学道の巻 谷口清超著)
<建立>
従って、“この”真理からして、人間なるものが、全宇宙にあらわれる。何となれば、人間は既に「実相」にあるものである。それが肉体として現れ、尽十方世界に現れる。すなわち「尽十方真実人体なり」大宇宙が人間のからだだという。これを天然現象や自然現象と同一視してはならぬ。人間の肉体が物質から自然に出来たとか、アミーバーからつくられて行ったなどと、タワケタことを言ってはならぬ。それは既に「実相」に於いて厳然としてあるものだ。それは現象界を超えて“ある”のだから、大きさがない。従って、広い狭いを越えている。「これを握れば一点となり」だから、「これを開けば無窮となる」のである。無時間・無空間の「一」から現象界に色々と現れてくる。これが人間の体である。
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第一章1~5>
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
<ヨハネによる福音書第一章14>
14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とありますように、人間すべてのうちに言は宿っているのであり、イエスは人間の代表者として、つまり「人間」そのものとしてヨハネは説いているのです。
わが内に仏を観、生命を観たものだけが、一切を物と観ず、仏の生命として観ることが出来るのであります
2018/9/17
すべてのものを仏と観、
物質なし実相あるのみが分って来るためには、
神想観で“実相を観る”(仏を観ずる)ことが
ますます必要になってくると思われます。
(参考 あなたは必ず救われる 藤原敏之 日本教文社)
【シッタ太子はもはや苦行の必要なしと、見切りをつけられたので、その足で、ラマ林を去り、ニレンゼン河という川まで来て、身体を洗って清めて、休んでおられる所に、センダラといって、一番下層階級の身分の賤しい娘から牛乳で作ったお粥を献ぜられ、お上りになり、元気をつけて菩提樹の下で坐禅をお組みになり、静かに考えこんでおられたのでありますが、3×7、21日間すぎた旧暦の12月8日の朝、明けの明星をごらんになり、突然ハッと偉大なことを発見せられたのであります。それは「一切は、空無であった」ということでありました。】
【この偉大な発見こそは、仏教で説かれる不滅の真理となったのであります。これが唯物論の否定であり、物質の否定なのであります。仏教哲学のことを、空の哲学、無の哲学というのはそのためであります。一切のものを否定し尽されたときに、「天上天下唯我独尊」なる大自覚に到達せられたのであります。】
【その場合の我は、肉体の我ではなくなっていたのであります。生命としての我であり、無限なるものとしての我であったのであります。本当の我が生命であると気がついた者だけが、生命を観るのであります。すべてのものが、物でなくなり、生命として観られたのであります。その時発せられた言葉が「山川草木国土悉皆成仏」と申され、一切のものが悉く仏の生命として、捉えることが出来たのであります。】
【わが内に仏を観、生命を観たものだけが、一切を物と観ず、仏の生命として観ることが出来るのであります。自分でありながら、そのまま自分ではなくなり、別の自分を発見できるのであります。このことを「新生」というのであります。キリストは「人新たに生れずんば、神の国に入ること能わず」といっておられます。これも同じく肉体の自覚から、霊の自覚、生命としての自分を発見することであって、もういっぺんお母様のお腹に入って、出直すという意味ではないのであります。このようにいずれの宗教においても、教義の基本となり、根底を流れている考え方は、物質や肉体の否定から出発するのであります。これなしに、苦しみや悩みを解消しようとすることは、全くのお笑いであります。】
2018/9/6
神想観では神に対座します。
神抜きの神想観では我の神想観になるので
あくまでも善なる愛なる神様と一対一(全)で祈るのです。
信ずるものは“実相”の「円満完全」です。
“実相”を祈っても充実感が得られない時には
自分を実相に全托してしまうといいです。
無条件降伏です。
気持がスッと楽になり、
安心感に包まれると思います。
(参考 すべてを癒やす道 藤原敏之 日本教文社)
【(省略)だから妊娠中の胎教や先祖供養のやり方や神想観などで、心があせり動揺し迷うのです。信ずるのは現象ではありません。神を信ずるのです。神のお創りになったままの本物(実相)を信ずるのです。五官によって知り得た現象(影)を信じようとしても、そんなものは信ずる対象ではありませんから信にならないのです。ありもしない影(現象)等信じられるはずもなく、また安心も得られません。】
“私だ”と思っていたのが私ではなくて、“神様であった”と気づくと“私”がなくなり神様だけになる
2018/9/6
(参考 すべてを癒やす道 藤原敏之 日本教文社)
私が自分というものが“いのち”であったと気づいたのが
現象がよくなるはじめでした。
7月末のことです。
“いのち”とは“神の子”であり“実相”であるとつながってきたのは、
新約ヨハネ伝と真空妙有の理解からでありました。
【信仰とはひと口でいえば“私だ”と思っていたのが私ではなくて、“神様であった”と気づくことであります。“無我”であり、“私”がなくなることです。私がないから神様だけとなります。これが生長の家の信仰であります。生長の家の教えは神一元の教えであり、神我一体の境地となることをいうのであります。神と我とが対立しているようなのは信仰ではありません。救われる自分も救って下さる神もない、我もなければ神もないという絶対の境地をいうのであります。それが信であります。】
実相以外は絶対に相手にしないと決定した心を信心という
2018/9/7
私はもう
目にみえない「本当にあるもの」以外は
信じないつもりです。
ついにここまで来ました。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【現象は影であって、影はどんなに現われているように見えても、無いと否定し切り、本当にあるもの(実相)だけを見つめて生きる生き方に徹するのであります。実相以外は絶対に相手にしないと決定した心を信心というのであります。】
自我的努力の一切を放棄
2018/9/8
自我的努力を一切放棄して
実相に全托することを心がけております。
そうすると無我になることから
神我が入ってくるのだと感じております。
つまり“神の子”になって行くと
思うのです。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【この(歎異抄)第二章は、親鸞上人の血と汗によって生命がけの努力の結果、自己の絶対無力であることを身体と生命で体得せられ、そこから生れた信仰内容を余すところなく表明せられたものであります。
信仰や救いが自分の努力や力によって左右せられるようなものではなく、自我的努力も判断も工夫も自分の力で出来る一切を放棄し、無為無策の境地になり切ることから生れるものであることを強調せられております。】
肉体といのちの関係の分り易い説明
2018/9/8
いのち(実相)と肉体の関係が
良く分る説明がありました。
ごらんください。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【自分の意志や力で行動したり仕事をしていると思っているのは、ちょうど印刷機械が動き仕事をしているのを、機械が自分の力で動き仕事をしていると考えちがいしているようなものであります。本当は、機械自身の力で動いているのではなく、動力源である電源にスイッチを入れ、機械に電流が流れ入ってくるから機械が動き出す如く、私達の肉体は人間が地上生活をするための道具にすぎないのであり、機械のようなものであって自分の力で生きる事も動くことも出来ないのであります。このことが、生命(魂)によって体得せられ一切を返却(帰命)することが信仰であります。南無阿弥陀仏とは、南無は帰命であり、無量寿(生き通し)の仏さまに命を帰すという意味であります。無量寿の仏さまに命を帰してしまうから私が私ではなくなり、そのまま生き通しの仏となるのであります。
この自覚によって顔も形も毛色も元のままでありますが、中味(心境)が変るのであります。信(仏)が心底にどっかりすわっておられて、間違わないようかじとりをしていて下さるのであります。そうして常に見守り給い、必要なものがあればその都度与えて下さり、これでは困るというようなことも一切なくなるのであります。】
生命の実相哲学で最も大事だが難しい所が「現象なし」です
2018/9/9
「現象なし」という真理の急所が
一番難しいところですが、
このことを分ってくると、
現象がないなら何があるのだ、ということで、
“神のいのち”の世界、
つまり神の理念世界(実相世界)が
浮かび出てくるのです。
現象は“本当にあるもの”ではなく
そこにあるのは”目に見えないいのち”の世界、
”神のいのち”のみある世界と
いうことになります。
現象も実相と同じく”神のいのち”の世界です。
お釈迦さんのお悟りの内容を分ろうとしているのだから
簡単でないのは当り前です。
現象世界は
”実相の心”の時間空間世界への反映ですが
一人一人の人間の心を通して反映されるので、
「実相の心」プラス「人の現象の心」なのであって
「目にみえるもの」から
そこに潜む「見えないもの」を感じ取らないと
”神の心”それ自体をキャッチできないです。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【釈尊の成道もそのお覚りの根本が一切の現象即ちありとしあらゆるものが全部無いと気付かれたのであります。一切は空であり、無であったとお覚りになったところから始まったのであります。それで仏教のことを空の哲学、無の哲学といっているのであります。有難いお経ほど、空とか無とかいう文字が多くつかわれているのもそのためであります。ここが一般常識と全然異なるところでありまして、余程注意しないとつい常識論にまどわされて相対の信となり、相対の救いにとどまり、方便化土の往生といって、本ものの報土である阿弥陀仏の浄土(完全な自由)の世界に生れ変わることが出来ないのであります。
この世の中のありとしあらゆるものは全部が無い、あるのはみんな仏だけであると覚られたのでありますから、常識論からすれば、難しいといえば難しいわけであります。一般人の立場からすれば、信仰とは完全な気狂いか馬鹿になることであります。】
影と見えるのはその奥に実体(光り)がある証拠
2018/9/10
影と見えるものがあるのは
その奥に実体がある証拠である。
となると、
生のみでなく
“死”ですら実体「いのち」が存在しているのです。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【つまり影と見えるのはその奥に実体(光り)がある証拠であります。光りがなければ影さえもうつりません。極楽に往くのは、何時からでもなく、元元から既に極楽に居りながら極楽に気づかないだけであります。極楽にいたと気付いた時から極楽であり、それを発見した時、現われるのであります。】
神様に無条件降伏
2018/9/11
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
私は
藤原先生のお書きになっているとおり、
神様に無条件降伏をしました。
やはりこのことがきっかけで
神様の力「実相」が
少しずつ顕われてきていると感じます。
【私は、み教えの前に無条件に降参するより以外にどうすることも出来なくて、自分だと思い込んでいた身体は勿論、生命までも投げ出して声をあげて、ただ泣く以外に手段も方法もなかったのであります。長い間、自分だと思い込んで勝手気ままな条件をつけて、悩んだり苦しんでいたのがとんでもない間違い(迷い)であった。神の生命を授かって生れ、神の恵みによってただ生かされていた事に目覚め、ただお詫びし、全面返還を断行したのであります。信仰とは、全面降伏であり、全面返還の断行によるのであります。本願他力による救済とは正にこのことであります。】
自性円満の自覚で神のスイッチが入る
2018/9/15
自分の“生命の実相”は神のいのちだから
そのままで円満完全なものなのだと、
腹の底から納得したときに、
神癒となると言われます。
簡単なようですが、
これが真理の自覚なのです。
(参考 あなたは必ず救われる 藤原敏之 日本教文社)
【生長の家の救いの根元となるところが、この第3頁に明らかにされているのであります。総説「七つの光明宣言」の解説に、次のようにお示し頂いております。
「生命の実相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」】
何故「生命の実相の自性円満の自覚」で神癒が起るのでしょうか。このことにつき、藤原先生は、次のようにお書きになっています。
【つまり、わが内に無限なる神の生命があり、それが本当の私であると自覚することは30ワットか60ワットの電球をつけて、暗い暗いと思っていたのが、電力は無限にあるとわかり、何百ワットかの電球に取りかえると、そのとたんに明るくなるのと同じであります。自分の中に、完全な生命を自覚することが宇宙さえも創造し、かくあらしめているところの大生命につながることなのであります。大生命の働きは無限であり、絶対力でありますから、そこから無限の力が与えられるから、どんな質(たち)のわるい病気でも癒されないということはないのであります。このことを神癒が現れるというのであります。】
藤原敏之先生に救われた
2018/9/6
たしか私が藤原敏之先生のご著書を
必死で学び始めたのは、
7月の始めからである。
また藤原先生のただ一つのユーチューブ講話を
毎日聞くようになったのは
7月中頃からである。
それ以来、
藤原先生の5冊のご著書と、録画の講話以外に
生命の実相の勉強として
使う資料はない。
もっとも
聖経『四部経』の一日10回読みと神想観は
私の修行の柱なので
これらを欠かすことはない。
藤原先生のご本を読み、
藤原先生のおっしゃることを実行することによって
私は救われてゆくという感触をもっている。
実相への絶対他力の「信」によって
自分は“救われずみ”という安心感が出来てきたのは
8月の始めからである。
神想観をしてもしなくても
常に神は見守り給うている。
そのことに気がつきさえすればよい、
と思うようになった。
そして現象を拝むのではなく
現象の奥にひそむ“いのち”(実相)を
拝むのであるとも思い始めた。
今では一日3回の神想観で
大丈夫となった。
一時は
一日に7回も8回もしないと
安心できない日々もあった。
藤原先生という雅春先生の真理の指導者を得たことが、
私をこのようにしてくれた。
藤原先生に感謝です。
心の間違い気づき徹底懺悔し“神の心”に置き換える
2018/9/14
現象に出ているものはすべて
過去に自分の心の描いたものが
消えるために出ているのである。
過去の心のまちがいを徹底懺悔し、
“神の心”に置き換えれば病気や不幸は消えると、
藤原先生はお書きになっています。
【何がそういう姿を現しているか。みんな心にあるんです。それ以外にあるんだと思ったら大間違いですよ。だから、どんなもんでも消えるんです。ないんだから。ないものはない。心にあるのが出ているだけだ。これだけです。だから出たのを見たら、ああ、私の心に間違いがあったと気がつけばよいのです。反省、内観、神様がいらっしゃるのに、自分が生きていると思った。神様の子を自分の子にして申し訳なかった。神様である主人を私の夫にして馬鹿にして申し訳なかった。そういう、気がつかなければならないところがあるはずです。ごまかしはだめですよ。出たということはあった証拠です。確かにあったから出た。素直にそれを認めて反省して内観して、ああ、申し訳ないと、徹底しておわびすること、懺悔、そうしたら、どんなに大きな問題でも消えるんですよ。すべてが心、これが三界唯心の所現という仏教の教え、谷口先生が運命も環境も心の影だと教えてくださった。だから心の間違いに気がつけばどんな病気も災難もことごとく消えるより仕方がないんだということです。】
心を変えれば映っているのが消える
2018/9/14
現象世界に本当にあるものは
目にみえない“神の心”つまり実相だけなのだから、
心を変えれば映っているのが消える、
本当にあるもの(実相)への「信」を強めればよいのである。
(参考 救われ済みの人生 藤原敏之 日本教文社)
【今身体に現れたり、家庭に現れたり、夫婦の間に現れたり、事業や商売に現れたり、困ったことになっとると、今の心配している出来ごとはみんな影だとわかったとき、その鏡の影をなおす方法はたった一つだけ、鏡を取り替えてもだめ、向きを変えても、こすってもだめ、それはあなたの心にあるものが映っているだけだから、心を変えれば映っているのが消えるのです。】
利己心の消去
2018/9/12
自己保存の本能、
唯識論でいう「末那識」というものは
取り去ることが不可能なものであるのか、
だとすれば人間は永遠に
“神の子”や“仏”になれないでしょう。
でも人間は
本来“神の子”であり“仏”でありますから
利己心など有っている存在では
ないのであります。
これが本当の真理なのです。
ですから人間は本来の“神の子”であり“仏”に戻ってしまえば、
自分で苦しむ類の利己心は無くなります。
自己保存の本能も浄められますから、
必要なものに限られるはずです。
自分にこんな醜い心があると苦しむ事態は
無くなるはずであります。
こういう心境は
絶対他力の信仰で
自分というものを神様にお返しして
“神の子”(つまり神)の自覚を得ることによって
達成されると
藤原先生のご講話から
読みとれることです。
人間が宇宙である
2018/9/16
人間の“生命の実相”が
自分という人間を通して時間・空間世界に
展開しているという真理を
正法眼蔵は
説いています。
全く同じことを
新約ヨハネ伝も書いているので、
これも書いて置きます。
(正法眼蔵を読む 身心学道の巻 谷口清超著)
<建立>
従って、“この”真理からして、人間なるものが、全宇宙にあらわれる。何となれば、人間は既に「実相」にあるものである。それが肉体として現れ、尽十方世界に現れる。すなわち「尽十方真実人体なり」大宇宙が人間のからだだという。これを天然現象や自然現象と同一視してはならぬ。人間の肉体が物質から自然に出来たとか、アミーバーからつくられて行ったなどと、タワケタことを言ってはならぬ。それは既に「実相」に於いて厳然としてあるものだ。それは現象界を超えて“ある”のだから、大きさがない。従って、広い狭いを越えている。「これを握れば一点となり」だから、「これを開けば無窮となる」のである。無時間・無空間の「一」から現象界に色々と現れてくる。これが人間の体である。
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第一章1~5>
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
<ヨハネによる福音書第一章14>
14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とありますように、人間すべてのうちに言は宿っているのであり、イエスは人間の代表者として、つまり「人間」そのものとしてヨハネは説いているのです。
わが内に仏を観、生命を観たものだけが、一切を物と観ず、仏の生命として観ることが出来るのであります
2018/9/17
すべてのものを仏と観、
物質なし実相あるのみが分って来るためには、
神想観で“実相を観る”(仏を観ずる)ことが
ますます必要になってくると思われます。
(参考 あなたは必ず救われる 藤原敏之 日本教文社)
【シッタ太子はもはや苦行の必要なしと、見切りをつけられたので、その足で、ラマ林を去り、ニレンゼン河という川まで来て、身体を洗って清めて、休んでおられる所に、センダラといって、一番下層階級の身分の賤しい娘から牛乳で作ったお粥を献ぜられ、お上りになり、元気をつけて菩提樹の下で坐禅をお組みになり、静かに考えこんでおられたのでありますが、3×7、21日間すぎた旧暦の12月8日の朝、明けの明星をごらんになり、突然ハッと偉大なことを発見せられたのであります。それは「一切は、空無であった」ということでありました。】
【この偉大な発見こそは、仏教で説かれる不滅の真理となったのであります。これが唯物論の否定であり、物質の否定なのであります。仏教哲学のことを、空の哲学、無の哲学というのはそのためであります。一切のものを否定し尽されたときに、「天上天下唯我独尊」なる大自覚に到達せられたのであります。】
【その場合の我は、肉体の我ではなくなっていたのであります。生命としての我であり、無限なるものとしての我であったのであります。本当の我が生命であると気がついた者だけが、生命を観るのであります。すべてのものが、物でなくなり、生命として観られたのであります。その時発せられた言葉が「山川草木国土悉皆成仏」と申され、一切のものが悉く仏の生命として、捉えることが出来たのであります。】
【わが内に仏を観、生命を観たものだけが、一切を物と観ず、仏の生命として観ることが出来るのであります。自分でありながら、そのまま自分ではなくなり、別の自分を発見できるのであります。このことを「新生」というのであります。キリストは「人新たに生れずんば、神の国に入ること能わず」といっておられます。これも同じく肉体の自覚から、霊の自覚、生命としての自分を発見することであって、もういっぺんお母様のお腹に入って、出直すという意味ではないのであります。このようにいずれの宗教においても、教義の基本となり、根底を流れている考え方は、物質や肉体の否定から出発するのであります。これなしに、苦しみや悩みを解消しようとすることは、全くのお笑いであります。】
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