顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

井伊谷三人衆の鈴木重時の子孫は、水戸藩家老

2017年08月19日 | 歴史散歩
NHK大河ドラマの「女城主 直虎」に出てくる井伊谷三人衆は、今川家が井伊家の目付に任じた鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久 (写真左から)です。このうち菅原大吉演じる鈴木重時は、遠江と三河の境、山吉田を拠点とする国衆で、井伊直親の母は鈴木の出のため、井伊家と縁戚関係があるせいか、井伊家にもやや同情的な役柄です。

やがて鈴木重時は他の二人とともに今川から徳川家康に寝返り、浜名湖西岸の城攻めに活躍しますが堀江城の戦いで戦死、子の重好が家督を継ぎ、後に家康から徳川四天王となった井伊直政の配下に付けられました。
彦根城の家老を務めるも藩内の権力争いに巻き込まれ、閉居生活を送っていましたが、元和4年(1618)、徳川秀忠により水戸藩付きを命ぜられると、孫の長松丸(のちの鈴木重政)を伴って赴任、知行5千石を給され、代々従五位下に叙されて石見守を名乗り、水戸藩の家老・城代を務めた名家となりました。
水戸城の東二の丸下に水堀に囲まれた出城的役割の広大な居館を構えていました。

それから8代目の鈴木重棟は、水戸藩家老職として門閥派諸生党の中でも最も禄高が高く、名目上諸生党の領袖とされ市川三左衛門らとともに藩政の実権を掌握し、元治2年には、加増されて7,000石。さらに家格は附家老中山氏と山野辺氏に次ぐ1万石とされました。
しかし慶応4年(1868)、明治維新により諸生党と尊攘派天狗党の立場は逆転します。3月10日水戸を脱出、その後諸生党の主要勢とは別れ、江戸に潜伏しましたが捕えられ、4月23日、斬罪に処されました。享年30歳。
幼少の二人の息子も斬罪となり、8歳の長男・銛太郎は泰然と斬られましたが、次男甚次郎は菓子を手に、兄と同じ目になるのは嫌だと泣きながら斬られたということです。(二人とも赤沼で獄死の説もあります)
隠居していた父の重矩も、捕えられた後に食を絶ち獄死しました。

その鈴木石見守の墓所は、水戸市元吉田の天台宗の古刹、薬王院にあります。
一族の広い墓域の中に重棟親子の墓碑名は探せませんでしたが、「従五位下源朝臣重政鈴木石見守」という水戸での2代目の墓碑はなんとか見つかりました。

一画は盆に訪れる子孫もなくひっそりしていますが、隣地の墓域には分家の鈴木重義(縫殿)一族で、諸生党追討で活躍し維新後水戸藩政務局総裁にもなった敵味方の間柄というのも、幕末の水戸藩の陰惨な一面を見るような気がします。

さて、石見守の屋敷の北側にある明星が池(上記地図の○72あたり)は、水戸城の水堀の一部でしたが、石見守が水戸を脱する時に千両箱を13箱沈めたという言い伝えがあり、明治と昭和の始めに水浚いやボーリングをしましたが、出てきたのは刀一振りだけだったと網代茂さんの「水府異聞」に書かれています。
いま日赤病院の東側の明星が池跡は住宅密集地になり、昔の面影はありませんが、谷中の保和苑の池に、その名前だけが残っています。

保和苑・明星が池は紫陽花で有名です。
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2 コメント

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お早うございます (golfun)
2017-08-19 09:33:08
薬王院の銀杏が黄色くなった頃に
毎年見物しています。
保和苑の紫陽花祭りには毎年行っていますが
今年は体調不良であきらめました。
井伊谷三人衆の鈴木重時の子孫は、水戸藩家老 (顎髭仙人)
2017-08-19 14:27:05
薬王院にある徳川光圀の異母兄亀千代丸の五輪塔は知っていましたが、奥にこんな悲しい一画があるのを知りませんでした。

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