顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

豊田城…そびえる模擬天守

2019年12月09日 | 歴史散歩

先日、圏央道走行中に見えた白い天守閣は、やはり平成4年(1992)建設当時に何かと話題になった豊田城の模擬天守でした。現在は常総市地域交流センターという名前で、サブネームに豊田城としているようですが…

5層7階の巨大な天守は高さが48.5mでなんと姫路城クラス、しかし中世のこの地は確かに豊田氏という領主が支配していましたが、城は2Kmくらい南東の小貝川沿いにあり、川を防御の堀とした茅葺きの居館だったようです。

豊田氏の始祖は、平国香の子孫で源義家に従い前九年の役(1051~1062)で手柄を立てた赤須四郎政幹で、この地を賜り豊田を名乗り居を構えました。戦国時代は姻戚関係を結んだ小田氏とともに佐竹氏、多賀谷氏の南進を撃退してきましたが、天正3年(1575)豊田氏20代治親が多賀谷氏に内通した家臣に殺され約500年の歴史を閉じました。

豊田氏の老臣、飯見大膳が下妻城主、多賀谷政経の家臣、白井全洞の調略により、主君豊田治親を私宅の茶会に招き毒殺する様子が交流センターで展示されていました。

天守の周りには2層や3層の櫓が全部で5棟あるそうです。そもそもお城はなかったので、郭の四隅に建てられる櫓もある筈もなく、何のために?と思いますが、倉庫として使っていると聞きました。

さて実際の豊田城址はというと、小貝川の堤防にその石碑がたっています。小貝川と鬼怒川に挟まれ度重なる洪水の歴史を持つ地帯なので、実際は河川敷工事などで城の正確な位置や縄張りなどは消えてしまっているそうです。

堤防の先には関東平野を見下ろして筑波山、当時も今も変わらぬ姿で佇っていますが、見てきた歴史を語ってはくれません。

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