顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

弘道館の葵の紋

2016年11月07日 | 水戸の観光
そもそも徳川家の三つ葉葵紋の原型は、京都の賀茂神社の神事に用いられてきた双葉葵と言われています。植物のフタバアオイは別名を加茂葵ともいい、山地に生えるツル性の多年草、山歩きで見たことはありませんが、水戸藩上屋敷跡の小石川後楽園の入り口に植えてありす。

同じ葵紋でも将軍家や御三家では少し違っていたようですが、データで保存できない時代なので、年を経るごとに違ったりして厳密に区別することは難しかったようです。

さて、1841年(天保12年)に建てられた水戸藩の藩校弘道館の葵紋を探してみました。
まず屋根瓦です。正門、番所、正庁、至善堂などの鬼瓦などに見られます。東日本大震災の復旧修理では、漆喰彫刻などの屋根瓦の伝統技術の職人を各地から集めて、見事に復元できました。創立当時の瓦も約1500枚(全体の6%)使われているということです。

正門の屋根の下、棟木を受ける板蛙股にも葵の紋が見えます。明治元年の弘道館戦争の銃痕が数多見られる正門ですが、ここまでは銃弾が届かなかったようです。

重要文化財の建物内に入ると、釘隠し(六葉のもの・星型のものもあります)と襖の引き手に見られます。傷んだものは替えているようですが、古色蒼然としたものは、創立時のものかもしれません。

主だった部屋の畳の縁にも葵紋が付いています。実際に創立時に畳に葵紋があったかどうかは疑問のようですが、来館の方には喜ばれています。

至善堂四の間にある大きな長持、一説では慶喜公が謹慎蟄居のため、江戸の寛永寺からここ弘道館へ下ってくる時に身の回り品を入れてきたとか言われています。前後二人で担ぐのはさぞ大変だったと思うような堅牢で大きな長持です。

最近展示された藩医小林元茂の羽織にも葵紋、産婦人科が専門で藩の表医師から奥医師に昇り葵紋付きの羽織着用を許され、弘道館医学館の助教も勤めました。「麻素材で黒色の草木染め、ほころびを繕いながら愛用していたのが分かります」と説明があります。

大番組控室に展示されている、藩の絵師萩谷遷喬による武装の烈公の軍扇にも葵紋がしっかと描かれています。
まだあるかもしれませんが、弘道館内で今回見つけたのは以上でした。今では家紋など気にしなくなりましたが、「この紋所がぁ~」という時代、権威の象徴としても重要な意味を持った葵の紋だったと思います。

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