顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

枝垂れ桜がより紅く…早朝の六地蔵寺(水戸市)

2024年04月04日 | 水戸の観光

水戸市の枝垂れ桜の名所、六地蔵寺は我が家から近い位置にあるので、満開だという情報を得た次の日4月2日、桜の撮影にいいという早朝7時半に行ってみました。


早速、薄紅色がより濃く感じられるような(いたって個人の感想です)早朝の瑞々しい花が迎えてくれました。


境内に入る両側には、右に樹齢1100年の大杉と左に800年の大銀杏の巨木がそびえています。


この時間には年配のカメラマンが数人いるだけですが、大型バスを含めて220台の駐車場が備わっています。最近では近くの施設入所の方が車椅子で来ている微笑ましい光景も見られます。


この六地蔵寺の山院号は倶胝山聖寶院、別名「水戸大師」ともよばれ、約1200年前の大同2年(802)の開山、真言宗の安祥寺流系六地蔵法流の本山で末寺25寺をもち、この地の歴代領主である大掾氏、佐竹氏、徳川氏から手厚い保護を受けてきました。


本堂には徳川家菩提寺、真言宗本山、水戸大師という大きな看板が掲げられていますが、今でも将軍家と水戸徳川家歴代の御位牌を護持しているそうです。


本堂の大棟には徳川家の葵紋が付いています。ここの枝垂れ桜はエドヒガン系のイトザクラで、他の桜より一足早く開く淡紅色の花とその優雅な樹姿は、水戸藩2代藩主徳川光圀公が本寺院に参詣された時、その美しさに深く感銘したと伝えられています。


現在の枝垂れ桜は、光圀公が花見を楽しんだ桜の「孫生え」ともいわれ、樹齢約200年の老木などおよそ50本が植えられています。


シダレサクラの下には実生から芽を出した小さな苗が何本か顔を出しています。住職の家族の方々があたたかく見守っているそうです。


光圀公最晩年の寄進と伝わる地蔵堂は、裳階(もこし)付きで二階建てに見えても屋根裏の高い平屋で、元禄時代の建築様式の特色を示しているそうです。堂内に本尊の六地蔵菩薩立像(木像6体)が安置されています。


真言宗の開祖である弘法大師(空海)も桜に囲まれてより柔和なお顔になっているようです。お寺に枝垂れ桜が多いのは、天井から吊るす仏具、天蓋に見立てたという説もあるのが頷けます。


六地蔵とは、死後に赴く地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの道から救済するために配され地蔵菩薩だそうです。


二本の本柱の前後に控え柱を立てた簡素な造りの四脚門は、室町時代末期の様式がよく表れているとされます。


旧法寳蔵は光圀公の命により建立された寺宝の収蔵庫で、明治42年、蔵の改修のための調査で、慶長小判30枚が見つかり調査の結果、公自身が将来の法寳蔵修繕費として置いたものであることが判明しました。


六地蔵寺の護持している平安から室町時代中心の学問的価値の高い資料や文化財は3000点以上におよび、すべて国及び茨城県の重要文化財に指定されており、関東地方では公的機関を除くと金沢文庫、足利学校に次ぐ規模になるそうです。旧法寳蔵に代わり向かい側に新法宝蔵が建立されています。


光圀公が手掛けた「大日本史」の編纂に重要な役割を果たした二人の先人の墓所が隣接地にあり、枝垂れ桜に覆われていました。

「大日本史」編纂の彰考館総裁として,藤田幽谷ら多くの門人を育成した立原翠軒(1744~1823)とその一族の墓所、「立原翠軒 居士之墓」と清冽な篆書体で書かれています。


栗田寛(1835~1899)と養子の勤は、明治維新後も大日本史の志、表の編著の継続と完成に尽力し、明治39年(1906)光圀公以来250年に及ぶ大日本史(本紀・列伝・志・表の397巻と目録5巻の計402巻)の大事業を完成させました。



枝垂れ桜の名所といわれるだけあって、お寺側でも信仰に関係なく訪れる花見客のために広い駐車場や設備を整えて水戸の観光に一役買っています。あるお寺で聞いた「人が集まってこそお寺には意味がある」という住職の話を思い出しながら、早朝の枝垂れ桜を堪能させていただきました。

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