栃木県那珂川町にある武茂城は、鎌倉幕府の評定衆であった宇都宮景綱の三男泰宗が正応元年(1288)に武茂荘14郷を領し武茂氏を名乗り築きました。その後本家宇都宮家を相続するために何度か武茂氏は途絶えますが、戦国時代に再興した武茂兼綱は東隣の佐竹氏と争いを繰り返すも苦戦を重ね、永禄年間(1558~1570)には佐竹氏の傘下に入り、戦国末期の配置替えまでの約300年間この地を治めました。
武茂氏は小田原戦後に常陸国に配置換えになり、武茂城は佐竹氏家臣の太田五郎左衛門資景が城主となりましたが、関ケ原の戦い後、佐竹氏の秋田移封にともない廃城となり、江戸時代になるとこの一帯は水戸徳川家の所領となります。
なお、佐竹氏に従い秋田に移った武茂氏は、大舘城代佐竹西家の家老職を代々務めたと伝わっています。
城跡は那珂川町の中心部の那珂川と支流の武茂川を臨む河岸段丘にありますが、その尾根の両側の谷を挟み、東側尾根には武茂東城、西側尾根には武茂西城があり、東西からの敵を防ぐ出城的な役割をしたと思われます。(今回は支城の踏破はしていません)
静神社の155段の急石段が武茂本城の入り口になっています。あまり急段のため隣の女坂を登りました。
静神社は大同年間(806~809)誉田別命((ほむたわけのみこと)を祀る八幡神社として郷内にあり武茂氏の守護神として崇敬されていましたが、元禄年間に水戸藩2代藩主徳川光圀公が廃城となった武茂城の南端に静神社として遷座し、手力男命(たぢからをのみこと)を併祀しました。
当時、常陸国では光圀公による寺社改革で八幡神社が廃社改編されており、その一端として領地の武茂でもその施策を実行し、常陸二ノ宮の静神社を分祀し、名前も変えたといわれています。
さて、静神社の急坂から3段の腰曲輪を登ると三の丸、二の丸、本丸と続く連郭式山城になっています。
三の丸から二の丸へ深い堀があり土橋が架かっています。
二の丸の平地は広く、木製の台座が2基置かれていましたが休憩用でしょうか、訪れる人もいないように思いますが。
二の丸の奥に鳥居があり、一段と高いところが本丸櫓になっています。静神社の奥の院の役割をしていたのかもしれません。
本丸跡の木製標柱はほとんど文字が消えています。一段と高い約20㎡くらいのこの土壇が本丸櫓台とされます。西側の本丸とされる1画も広くないので、実際はすぐ下の二の丸が主郭のようです。
本丸奥の西側は深さ6mくらいの堀切に落ち込んでいます。
城址の斜面に咲いていた野菊、カントウヨメナ(関東嫁菜)、当時も城兵の行き来を眺めていたのでしょうか。
武茂本城の東側の谷にあるのが曹洞宗の龍澤山大渓院乾徳寺で、武茂氏中興の祖6代兼綱が建立し、武茂氏の菩提寺としました。
入り口には武茂氏初代武茂康宗の銅像が建っていました。地方豪族の銅像というのは珍しく感じましたが、康宗は父宇都宮景綱の影響を受け、鎌倉や京都歌壇との交流が深く、後拾遺和歌集などの勅撰歌集に15首の秀作が載る文化人でした。
武茂家の家紋(三巴紋)が刻された山門は、切妻、銅板葺き、一間一戸の四脚門で武茂城の大手門を移築したと伝わる安土桃山時代の建築様式で、安永2年(1773)の改修棟札が残されています。
境内には数多くの石仏が優しい顔で迎えてくれました。
明応8年(1499)耕山寺(常陸太田市)11世舜芳和尚を招き開山したのが始まりと伝えられています。
元禄2年(1689)、正徳5年(1715)改修の棟札が残っていますが、明治36年(1903)民家の火災により七堂伽藍が焼失、9年後に復興しています。
本堂奥の山腹にある武茂氏300年の歴代墓碑は、享保16年(1731)に散逸していたものをここに集めたと記された古文書が残っているそうです。それぞれの時代を反映した宝篋印塔が並んでいました。
白い山茶花の淡い紅が、陽の陰った谷間の境内でひときわ目を惹きました。
なお城域の西麓にある武茂山十輪寺馬頭院は、真言宗豊山派の寺院で、寺伝では建保5年(1217)の開山、当時の本尊は地蔵菩薩で寺名は「勝軍山地蔵院十輪寺」で武茂氏の崇敬を得て隆盛していました。
江戸時代になると、この地方は水戸藩の領地となり、元禄5年(1692)2代藩主徳川光圀公が訪れて、当山の本尊を馬頭観世音菩薩に、そして寺名も馬頭院と改めました。
その際、この地方の郷の名「武茂」も「馬頭」に改めたとされています。
小さな町ですが地方豪族の史跡がまとまって残っていて、短い時間でしたが充分に中世から江戸時代への変遷の歴史を味わうことができました。