顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

武茂(むも)城址…中世300年の歴史を秘めて

2024年10月29日 | 歴史散歩

栃木県那珂川町にある武茂城は、鎌倉幕府の評定衆であった宇都宮景綱の三男泰宗が正応元年(1288)に武茂荘14郷を領し武茂氏を名乗り築きました。その後本家宇都宮家を相続するために何度か武茂氏は途絶えますが、戦国時代に再興した武茂兼綱は東隣の佐竹氏と争いを繰り返すも苦戦を重ね、永禄年間(1558~1570)には佐竹氏の傘下に入り、戦国末期の配置替えまでの約300年間この地を治めました。


武茂氏は小田原戦後に常陸国に配置換えになり、武茂城は佐竹氏家臣の太田五郎左衛門資景が城主となりましたが、関ケ原の戦い後、佐竹氏の秋田移封にともない廃城となり、江戸時代になるとこの一帯は水戸徳川家の所領となります。
なお、佐竹氏に従い秋田に移った武茂氏は、大舘城代佐竹西家の家老職を代々務めたと伝わっています。


城跡は那珂川町の中心部の那珂川と支流の武茂川を臨む河岸段丘にありますが、その尾根の両側の谷を挟み、東側尾根には武茂東城、西側尾根には武茂西城があり、東西からの敵を防ぐ出城的な役割をしたと思われます。(今回は支城の踏破はしていません)



静神社の155段の急石段が武茂本城の入り口になっています。あまり急段のため隣の女坂を登りました。


静神社は大同年間(806~809)誉田別命((ほむたわけのみこと)を祀る八幡神社として郷内にあり武茂氏の守護神として崇敬されていましたが、元禄年間に水戸藩2代藩主徳川光圀公が廃城となった武茂城の南端に静神社として遷座し、手力男命(たぢからをのみこと)を併祀しました。
当時、常陸国では光圀公による寺社改革で八幡神社が廃社改編されており、その一端として領地の武茂でもその施策を実行し、常陸二ノ宮の静神社を分祀し、名前も変えたといわれています。


さて、静神社の急坂から3段の腰曲輪を登ると三の丸、二の丸、本丸と続く連郭式山城になっています。


三の丸から二の丸へ深い堀があり土橋が架かっています。


二の丸の平地は広く、木製の台座が2基置かれていましたが休憩用でしょうか、訪れる人もいないように思いますが。


二の丸の奥に鳥居があり、一段と高いところが本丸櫓になっています。静神社の奥の院の役割をしていたのかもしれません。


本丸跡の木製標柱はほとんど文字が消えています。一段と高い約20㎡くらいのこの土壇が本丸櫓台とされます。西側の本丸とされる1画も広くないので、実際はすぐ下の二の丸が主郭のようです。


本丸奥の西側は深さ6mくらいの堀切に落ち込んでいます。


城址の斜面に咲いていた野菊、カントウヨメナ(関東嫁菜)、当時も城兵の行き来を眺めていたのでしょうか。



武茂本城の東側の谷にあるのが曹洞宗の龍澤山大渓院乾徳寺で、武茂氏中興の祖6代兼綱が建立し、武茂氏の菩提寺としました。


入り口には武茂氏初代武茂康宗の銅像が建っていました。地方豪族の銅像というのは珍しく感じましたが、康宗は父宇都宮景綱の影響を受け、鎌倉や京都歌壇との交流が深く、後拾遺和歌集などの勅撰歌集に15首の秀作が載る文化人でした。


武茂家の家紋(三巴紋)が刻された山門は、切妻、銅板葺き、一間一戸の四脚門で武茂城の大手門を移築したと伝わる安土桃山時代の建築様式で、安永2年(1773)の改修棟札が残されています。


境内には数多くの石仏が優しい顔で迎えてくれました。


明応8年(1499)耕山寺(常陸太田市)11世舜芳和尚を招き開山したのが始まりと伝えられています。
元禄2年(1689)、正徳5年(1715)改修の棟札が残っていますが、明治36年(1903)民家の火災により七堂伽藍が焼失、9年後に復興しています。


本堂奥の山腹にある武茂氏300年の歴代墓碑は、享保16年(1731)に散逸していたものをここに集めたと記された古文書が残っているそうです。それぞれの時代を反映した宝篋印塔が並んでいました。


白い山茶花の淡い紅が、陽の陰った谷間の境内でひときわ目を惹きました。


なお城域の西麓にある武茂山十輪寺馬頭院は、真言宗豊山派の寺院で、寺伝では建保5年(1217)の開山、当時の本尊は地蔵菩薩で寺名は「勝軍山地蔵院十輪寺」で武茂氏の崇敬を得て隆盛していました。

江戸時代になると、この地方は水戸藩の領地となり、元禄5年(1692)2代藩主徳川光圀公が訪れて、当山の本尊を馬頭観世音菩薩に、そして寺名も馬頭院と改めました。
その際、この地方の郷の名「武茂」も「馬頭」に改めたとされています。



小さな町ですが地方豪族の史跡がまとまって残っていて、短い時間でしたが充分に中世から江戸時代への変遷の歴史を味わうことができました。

秋の七草…万葉集で詠まれた歌

2024年10月23日 | 季節の花



秋の七草は、今から約1300年前に編纂された万葉集にある山上憶良(やまのうえのおくら)の和歌2首がもとになり、後世に知られるようになったといわれます。

    秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り 
        かき数(かぞ)ふれば 七種(ななくさ)の花
    ※指のことを古語では「および」といいました。
                  巻8の1537  山上憶良

    萩の花 尾花葛花 なでしこの花 
        女郎花また藤袴 朝貌(あさがお)の花
                  巻8の1538  山上憶良 

凄まじい夏の暑さの余韻もやっと覚めて秋真っ盛り…万葉の時代に思いを馳せて、秋の七草の写真を在庫から探し出し、万葉集で詠まれた七草の歌と一緒に並べてみました。


萩の花



萩の花は万葉集で詠まれた一番多い花で141首もあるのは、どこにでも手軽に眼にする花だったからかもしれません。マメ科の落葉低木、花と実を見ればマメ科というのが納得できます。宮城野萩、丸葉萩などいろんな種類がありますが、秋の七草で詠まれたのは「ヤマハギ(山萩)」という説が多いようです。

    我が宿の 一群萩を 思ふ子に
        見せずほとほと 散らしつるかも   大伴家持 巻8-1565

    ※私の家の一群れの萩を恋しい人に見せないうちにあやうく散らしてしまうところでした。
    ※ほとほと:もう少しで(…しそうである)

この歌は巻8-1564に載っている日置長枝娘子(へきのながえおとめ)の歌に対する大友家持(おおとものながもち)の返歌とされています。

  秋づけば 尾花が上に 置く露の
      消ぬべくも我は 思ほゆるかも   日置長枝娘子 巻8-1564

   ※秋らしくなると尾花の上の露のように、身も心も消えてしまいそうなほどあなたを思っています。

このような恋の歌のやり取りは「相聞歌」とよばれ、万葉集全体の約半数を占めています。今放映中の大河ドラマ「光の君へ」は、万葉の時代より約300年後の平安の貴族生活を描いていますが、やはり「相聞歌」が出てきました。
宮廷文化が熟したこれらの時代には、一夫多妻や通い婚が認められ、恋愛は物語や和歌の題材として頻繁に取り上げられていました。貞操観念も厳しくなく恋愛に対するおおらかな時代であったと言えるかもしれません。


尾花 



尾花はススキのことで、尻尾のような花穂の形からよばれ、茅(かや)、萱(かや)とも呼ばれ41首も載っています。

   人皆は 萩を秋と言ふ よし我は
        尾花が末を 秋とは言はむ    作者不詳 巻10-2110

   ※人は皆、萩こそ秋の花だという、いいや私は尾花の穂先こそもっとも秋らしい  といいたい。

万葉の時代にも大多数の意見に逆らって自分の意思を述べる軟骨漢がいたようです。


葛花



葛はマメ科クズ属の蔓性植物で、荒地や廃屋などすさまじい繁殖力で蔓延っているので、現在では歌のイメージには程遠いものがありますが、根は葛根湯など薬用、また葛粉(くずこ)として使われます。21首の歌が詠まれています。

    真葛延ふ 夏野の繁く かく恋ひば
        まことわが命 常ならめやも    作者未詳 巻10-1985

    ※真葛の蔓延る夏野のようにこれほど恋い焦がれたなら、本当に私の命はどうかなってしまうかもしれな

なでしこの花



七草の撫子の花は、「ヤマトナデシコ(大和撫子)」とよばれ日本女性の美しさをたたえるときに使われる「カワラナデシコ(河原撫子)」のことです。本州以西に自生するお馴染みの植物ですが、最近では自然破壊などで減少しているそうです。
万葉集掲載の「撫子の花」は26首、そのうち11首は万葉集編纂の中心人物とされる大伴家持の恋の歌です。

    朝ごとに 我が見る宿の なでしこの
          花にも君は ありこせぬかも   笠女郎 巻8-1616

     ※私が毎朝庭で見るナデシコの花があなたであったら、毎日顔を見ることができるのに…

笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌で、家持は、正妻や妾の他にも、何人かの女性との間に恋のやり取りがあり、交わした相聞歌が万葉集に多く載っています。女性にモテた平安のプレーボーイ家持に笠女郎が出した歌は29首、でも返された歌はたった2首だったと伝わります。

女郎花



14首詠まれたおみなえし(女郎花)は、昭和の野山でよく見かけましたが、最近では園芸店で購入して庭に植えている方も多くなりました。
「女郎」を意味する「オミナ」と、「圧(へ)す」という意味の「エシ」から、美人を圧倒するほど美しいという命名由来説があります。

    をみなへし 咲きたる野辺を 行き巡り
       君を思ひ出 たもとほり来ぬ  大伴宿禰池主  巻17-3944

     ※女郎花の咲いている野辺をめぐり歩きながら、あなたを思い出してはあちこちと女郎花を求めてさまよって来ました。
      ※たもとほる:廻(めぐ)って行く 行きつ戻りつする

大伴宿禰池主(おほとものすくねいけぬし)は、大伴家持の親族で越中国守として家持が赴任した地に、越中掾として在任しており互いに歌を詠みあった仲でした。この歌も着任後に催した宴の主人家持が詠んだ歌に対する返歌とされます。

藤袴



フジバカマ(藤袴)の万葉集の歌は冒頭の1首だけです。

    萩の花 尾花葛花 なでしこの花 
        女郎花また藤袴 朝貌(あさがお)の花  
                     山上憶良 巻8の1538 

フジバカマの葉には桜餅を思わせるような芳香があり、平安時代の貴族の女性は乾燥した藤袴の葉を入れた匂い袋を身に付け香りを纏ったそうです。

朝貌の花



万葉の時代には朝に咲くきれいな花を朝貌の花と詠んだようで、現在のキキョウ(桔梗)のことだとする説が有力です。5首詠まれています。

    展転(こいまろ)び 恋ひは死ぬとも いちしろく
          色には出でじ 朝貌の花  作者未詳  巻10-2274

    ※転げまわるほど苦しむ恋で死んでしまおうとも、はっきりと顔には出しません、朝顔の花のようには。
     ※展転(こいまろ)び:転げまわること  いちしろく:はっきりと(古語)

ところで万葉集の作者不詳の歌は約半分もあります。
7世紀から8世紀後半にかけて朝廷によって収集されてきた歌を、大伴家持が中心になって約4500首を20巻にまとめた万葉集には、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められているとされています。しかし当時の識字率は5%という説もあるので、恐らく作者不詳の歌は、下級の貴族や官人、僧侶など身分が低くても文字の書ける限られた階層の人たちの歌だったのではないでしょうか。
いずれにしても1300年以上前の我らが祖先の、いまよりもずっと激しい恋の歌に圧倒されてしまいます。

歴史を語り技術を伝える…一橋徳川家の美術工芸品

2024年10月17日 | 水戸の観光

いつもは9月末頃から咲き始める庭のキンモクセイ(金木犀)がやっと咲きだしました。秋の気温が高いほど開花時期が遅くなるそうですが、やっと咲いた黄金色の花に因んで、金箔をふんだんに使った美術工芸品のご紹介です。

茨城県立歴史館には、一橋徳川家の12代当主徳川宗敬氏から寄贈された総数約6,000点の美術工芸品や文書、記録類を収蔵した「一橋徳川家記念室」が併設されています。



一橋家は水戸との縁が深く、一橋家9代の慶喜は水戸藩9代徳川斉昭の7男で後に15代将軍になっています。12代当主の一橋宗敬は水戸徳川家12代徳川篤敬の次男で徳川慶喜は大叔父にあたります。宗敬夫人は慶喜の5男で鳥取池田家の池田仲博の長女幹子で、宗敬が養子縁組をした一橋家11代当主徳川達道の夫人は慶喜の三女、鐵子という深い関係があります。

寄贈された資料は歴史的、美術工芸的にも第一級の価値があり、特に一橋家のまとまった歴史資料として戦火や災害にもあわず伝えられてきたことでさらにその価値を高めています。
一橋宗敬はまた、養父の一橋家11代達道が収集した江戸時代の写本、版本約5万冊を昭和18年(1943)に東京国立博物館にも寄贈しています。


個人所有だったお宝を国のお宝にした英断のおかげで、歴史を語り技術を伝える貴重な資料が学術的研究に役立ち、我々市民もその一端を目にすることができるようになりました。



茨城県立歴史館ではこの莫大な資料の中からテーマ別に展示を行い、9月29日まで一橋家に伝わる「漆工と木竹工の品」展が開催されました。多くが国指定の重要文化財に指定されている、そのほんの一部をご紹介いたします。



朱漆福寿字蒔絵 盃 国指定重要文化財
「福寿」の文字を金、銀の薄肉高蒔絵ですべて異なる字体で入れています。宝暦10年(1760)初代宗尹が兄の9代将軍家重から拝領しました。


叢梨子地葵紋散蒔絵 膳部  国指定重要文化財
一式のうち御膳、瓶子、盃、燗鍋、湯桶…葵紋の蒔絵が散らされています。


叢梨子地梅唐草葵紋散蒔絵 盥 湯桶  国指定重要文化財
叢梨子地に梅と葵紋、唐草に唐花を蒔絵で施しています。誰の所用品かは不明です。


叢梨子浮線菱唐草葵紋散蒔絵 脇息  国指定重要文化財
5世斉位の正室永姫(賢子)の婚礼調度品、座って脇に置きひじをかけてもたれかかる道具です


濃梨子地浮線菱唐草葵紋散蒔絵 香道具  国指定重要文化財
火屋の付いた火取香炉に香壺二つと焚殻入れ、火箸と香盆…香道を楽しむ道具一式です。


叢梨子地葵紋散蒔絵 提重 国指定重要文化財
酒肴などを入れる重箱(4段)にお盆、銀の銚子(瓶子)2本、盃入れが付いた屋外レジャーの携帯重箱セットです。


櫛雛形  39点のうち一部 国指定重要文化財
目の粗いものから細かなものへと揃えられています。江戸時代の職人の技術の高さに驚かされる櫛目の細かさです。


金地彩絵松鶴、杜若図中啓  国指定重要文化財
地紙に金箔を押し、舞い降りる五羽の鶴(右)や杜若(左)が描かれています。右の松鶴図は7代慶寿が天保13年(1842)に江戸城本丸中奥で舞うために新調した中啓(能楽や狂言などの古典芸能や僧侶が儀式の際に用いる扇子)です。


叢梨子地花車蒔絵(右) 長文箱  黒漆若松舞鶴蒔絵(左) 長文箱


黒漆高坏柏葉螺鈿文字入り蒔絵 硯箱 国指定重要文化財
鳳凰に桐をあしらった高坏に柏の葉がのり、葉には螺鈿で伊勢物語第87段の一節「きみかためには」が入れてあります。


黒漆蒟醤盆 煙草箱 附属方盆
江戸時代の讃岐漆器の代表的技法蒟醤(きんま)で作られた盆で、文綺堂2代藤川蘭斎の作です。


檜扇 葵紋付き 国指定重要文化財
7代慶寿が登城の折携帯したものと伝わります。


印籠 国指定重要文化財
蒔絵、堆朱、螺鈿などの細工が施され、紐の先端に根付が付いた腰に下げる小箱で、主に印判や常備薬を入れていたものが、江戸時代には装身具になりました。大相撲ではいまも立行司と三役格行司だけが印籠を付けて土俵に上がっています。

明治維新、関東大震災、太平洋戦争で大名家などのお宝が散逸してしまったなかで、この一橋家の他にも、水戸徳川家(徳川ミュージアム)、尾張徳川家(徳川美術館)、井伊家(彦根城博物館)、前田家(成巽閣)など法人化して所有美術品を管理公開しているところもありますが経営は大変なようです。ある法人の代表の方が、どうしても手放すときには出所が後世に伝わるように高額なものから換金していると放送で話していました。
今後もどういう方策にせよ国のお宝が散逸せずに存続できるように、行政も何らかの優遇措置を設定して見守っていただきたいと思います。

一気に季節が進む…身の回りの秋の気配

2024年10月11日 | 季節の花
秋の長雨が数日続き、あの殺人的な夏の残像からやっと解放された気がしました。人間は何とも我儘なもので、今朝は寒いなぁと愚痴ってしまいました。


秋を告げる清楚なシュウカイドウ(秋海棠)は、中国などに自生していた山野草で、園芸種として渡来し日本各地に定着した帰化植物です。春咲くカイドウ(海棠)に似た美しい花を咲かせるので付いた中国名をそのままに音読みにして和名にしました。


同じ株に雄花と雌花がある雌雄異花同株で、上に向かって花が開いているのが雄花、垂れ下がってまだ開いてないのが雌花です。
一緒に写っている花はアカミズヒキ(赤水引)、祝儀などに使われる紅白の飾り紐に似ているので名付けられました。


秋の花で好みのホトトギス(杜鵑草)、鳥のホトトギス(杜鵑)の胸の模様のような斑点が花についていることから名前が付き、俳句などでは油点草という名で詠まれることもあります。ホトトギスのイラストは、サントリー「日本の鳥百科」よりお借りしました


初秋に咲くヒマワリとして最近人気のシロタエヒマワリ(白妙向日葵)がまだ咲いていました。原産国のアメリカではsilverleaf sunflower、直訳して銀葉ヒマワリともよばれます。


コスモス(秋桜)も名前のように秋を代表していますが、原産地はメキシコで明治時代に渡来した外来種というのを最近知りました。


偕楽園公園に咲いていたヒヨドリバナ(鵯花)、鳥のヒヨドリ(鵯)が鳴く頃に咲くという命名説が一般的です。


こちらもヒヨドリバナ属で万葉の時代から親しまれてきた秋の七草、フジバカマ(藤袴)です。葉に桜餅を思わせるような芳香があるという情報で試してみたら微かにそのような匂いがしました。平安時代の貴族の女性は乾燥した藤袴の葉を入れた匂い袋を身に付け香りを纏ったそうです。


偕楽園公園で咲いていたノハラアザミ(野原薊)です。


アキノタムラソウ(秋の田村草)はシソ科アキギリ属、同じ属で春に咲くハルノタムラソウもありますが、どちらも命名諸説の真偽は不明のようです。


この時期山野で目にするアキギリ属の総本家、キバナアキギリ(黄花秋桐)です。アキギリ属の属名は英語ではSarvia、まさしくサルビアそっくりです。


ワレモコウ(吾亦紅)も公園の一角に毎年顔を出してくれます。地味な花ですがカラオケでよく歌った杉本真人のメロディーが浮かんできます。


北米原産のヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)は大きくなる多年草で、空き地などに繁茂しています。ブドウのような実ですが有毒で、果実や根の誤食事例が結構あるそうです。


小さな実がぶら下がっているのはスズメウリ(雀瓜)です。果実は熟すと灰白色になりますがカラスウリ(烏瓜)と比べるとスズメの名の通り直径1〜2cmの可愛い球形です。


偕楽園公園の旧桜川で見つけたアキアカネ(秋茜)、「夕焼け♪小焼け~の」と親しまれたいわゆるアカトンボですが、農薬などの影響で個体数は激減しているのが現状です。


旧桜川で見つけた鯉の昼寝でしょうか、倒木の陰の凹みに三尾揃って休んでいました。厳冬の水中でじっと動かずに春を待つ準備はできているようでした。

梅林の彼岸花…偕楽園公園

2024年10月05日 | 水戸の観光
梅で知られる偕楽園は、広さ12.7haで標高差約20mの水戸台地上にありますが、周辺の沖積層の水辺を含めた緑地は、偕楽園公園とよばれ約300haの面積を誇ります。これはニューヨークセントラルパークに次いで世界第二位の広さの都市公園といわれています。


その一画、窈窕(ようちょう)梅林の隅にヒガンバナが咲いていました。多分最近植えたと思われますが、群生を一ヵ所にまとめず散らして植えたのがいい味を出していました。


ちょうど秋彼岸頃に咲くのでヒガンバナ(彼岸花)とよばれますが、開花気温が20℃くらいのため残暑厳しい今年はどこも彼岸をはるかに過ぎての満開になっているようです。


彼岸花は別名で死人花、地獄花、墓花もいわれ、どちらかというと忌み嫌われてきました。しかし詩や歌によく使われる曼殊沙華(マンジュシャゲ)という別名は、サンスクリット語でmanjyusaka「天界に咲く花」を意味し、おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくるという仏教の経典からついた名前でもあるので、最近では庭に植えられるようになり、リコリスという名前で園芸品種も販売されています。


ちょうど咲き始めのいい時期でしたが(9月30日)、よく彼岸花を撮影するのは難しいといわれるように、花全部が赤一色で、それが光の影響で強く出過ぎて、細部が良く分かりません。


我が狭庭でも咲いていたので、白い紙を下に差し込んで撮ってみたら、花が浮かび上がりました。地面から伸びた花茎には通常6個の花が咲いています。




写真ではよく分かりませんが、花を構成する6枚の花被(花びらと萼が一緒になったもの)のうち、外側の3枚は萼が花びら状になった外花被で、内側の3枚が本物の花びらの内花被です。一つの花からは6本の雄しべと1本の雌しべが長く飛び出しています。


咲いている花茎の下の地面には葉が見当たりません。これは開花期には周りの植物が葉を茂らせて光合成するので、多くの植物が枯れる秋の開花後に地面から葉を出し、太陽光をしっかりと受け栄養を球根に蓄える自然界の仕組みだそうです。



さて、本園の偕楽園にも秋の訪れが感じられるようになりました。


萩まつりは9月で終わりましたが、まだ残り花が咲いています。暑い夏の影響でしょうか、今年は花付きもあまり良くなかった気がします。


園内には、このような萩の群生が約150群あり、開設当初に仙台藩から譲り受けたという宮城野萩を中心に、山萩、丸葉萩、白萩などが混植されています。



万葉集で多く詠まれた花の一番が萩(141種)、二番目が梅(119種)…この二つの花で春と秋を彩った水戸藩9代藩主徳川斉昭公は、花を愛でるだけでなく、萩の葉は軍馬の飼料にもなり、梅の実は行軍の保存食にもなると戦いの備えとしても考えていたようです。


なお、この萩は秋の終わりに地上部を刈り取って、その枝で作った柴垣(萩垣)は園内各所で訪れる方の眼を楽しませてくれます。和風庭園の垣根として珍重される萩垣、その希少な材料がここでは豊富に調達できるからです。


天保13(1842)年の開設から182年、激動の幕末を生きた斉昭公は令和の平和な偕楽園を雲上から眺めて感慨に浸っているかもしれません。