顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

茂木町の滝2題…そして細川興元の墓所

2021年07月23日 | 歴史散歩
人影のない涼しい場所を求めて、隣接する栃木県の茂木町にある滝をふたつ回ってきました。

「馬門(まかど)の滝」は国道123号線沿い、道端に車3台くらいの駐車場があります。調べてみると馬門(まかど)という地名は他所にもあり、マカ(曲)・ド(処)という意味とか、ここも川が曲がったところということでしょうか。実際にこの逆川(さかがわ)は、滝の手前で向きを180度変え、約4km先で那珂川へ合流します。

駐車場の下に滝を見下ろす観瀑台があります。両岸に安山岩が切り立つ天然の岩滝は高さ7.6m、幅27.3m、傾斜した川床や岩盤の上を滑るように流れ落ちていく滝は渓流瀑というそうです。

かっては上流に魚が遡れなかったので、「魚止めの滝」ともよばれていました。大正時代にはここに水力発電所があり、この地区に初めての電灯を灯しました。

そこから直線距離で約6Kmのところにある「坪渕の滝」です。8台くらい停まれる駐車場から見下ろすと竹林越しに滝が見えます。

最近知られるようになった滝で、かっては生い茂った竹林の中にあり地元の人も音だけしか知らない幻の滝だったそうです。案内板などはほとんどありませんし、滝に下りる道にも勇気が要ります。

この竹原川も那珂川の支流で、落差約10mの岩盤を斜めに流れ落ちるこのような滝は、渓流瀑の中でも斜瀑というそうです。

この竹原地区は竹林が多く「かぐや姫の郷」とよばれ、ブルーベリー農園などもありますので、滝への通路の整備もお願いしたいと思います。


ところで、国土地理院の地形図の滝とは、高さが5m以上で流水が急激に落下する有名で好目標となる場所をいい、滝の幅が20m未満のものは滝(小)、20m以上のものは滝(大)の記号で表示すると載っています。

上の図で「馬門の滝」は滝(小)の記号、近辺の「袋田の滝」は滝(大)の記号で、「坪渕の滝」は知られていないせいか、滝の名前も記号も標示されていません。


九州の大大名細川家の一族で茂木藩細川家の菩提寺、曹洞宗塩田山能持院が近くにあるので寄ってみました。

もともとは鎌倉初期に八田知家の三男知基が茂木城の鬼門除けに建立しました。茅葺きの山門は江戸時代に手が加えられていますが、室町中期に再建された当時のものとされています。

江戸時代、茂木藩初代の細川興元は、大河ドラマ「麒麟がくる」に出てきた明智光秀の盟友、細川藤孝(幽斎)の次男で、始め父や兄、忠興と共に織田信長に仕え、その後豊臣秀吉、徳川家康に仕えて武功を上げましたが、豊前、豊後39万9000石の大守となった兄、忠興と不仲になり、徳川秀忠が興元に10万石を与えようとしたところ、不仲の兄、忠興の反対で茂木1万石になったといわれています。後に大坂の陣の戦功により常陸国に6,200石を加増され拠点を谷田部に移し、谷田部藩16,200石として廃藩置県まで存続しました。

なお、細川忠興の正室は、明智光秀の娘、玉子(細川ガラシャ)で、興元は義姉の影響や高山右近の勧めもあり家臣5人とともに洗礼を受けてキリシタンになったといわれています。

両側に石灯篭を配し墓の石の代わりに杉を植えた珍しい墓が歴代藩主の13基並んでいて、初代細川興元の杉は、若木が植えてありました。一帯は蝉の声も聞こえない静寂の空間でした。

茂木城については、拙ブログ「鎌倉時代から400年…戦国の山城、茂木城  2018.7.18」で紹介させていただきました。

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