顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

鎌倉時代から400年…戦国の山城、茂木城

2018年07月18日 | 歴史散歩

鎌倉幕府の有力御家人宇都宮一族の八田知家は、奥州藤原氏討伐の際の功により、源頼朝から下野国茂木郡を賜り、三男知基に茂木氏を名乗らせて建久年間(1190~1199)比高80mの桔梗山に城を築きました。
(↓ 駐車場から千人溜方面)

その後の承久の乱、南北朝の乱、禅秀の乱、永享の乱などで城を消失することもありましたが、与する相手を替えながら戦国の世を生き残りやがて佐竹氏に臣従し、天正13年(1585)には北条、結城の連合軍により一時は落城の憂き目を見ましたが、その後奪回、文禄3年(1594)佐竹義重の命により小川城(茨城小美玉市)に移るまで400年16代の支配が続きました。
(↓ 溜池付近から本丸方面、高い土塁の上が本丸です。)

代わって佐竹家臣の須田盛秀が茂木城代となりましたが、慶長7年(1602)佐竹義宣が秋田へ転封となり、その後慶長15年(1610)佐竹氏に代わり細川忠興の弟興元が10154石で入封、城下に陣屋を設けたので廃城になりました。
(↓ 本丸から茂木の町、右手遠方に芳賀富士(272m)が見えます。)

茂木氏も秋田移封に従い佐竹重臣を務め、戊辰戦争では秋田藩十二所城代として第30代茂木知端が新政府側で華々しい活躍をしたことが伝えられています。
(↓ 姫入水の伝えが残る鏡池と土塁の上の二の丸跡の杉林、ここに城主の館があったそうです。)

中央の広い千人溜を「コ」の形で囲む3つの郭で構成された珍しい縄張りの山城は、明治以後は耕地や山林として利用されてきましたが、空堀や土塁、池など戦国時代の山城の戦略的な機能はそのまま保存されていて貴重な城址となっています。
(↓ 本丸南西側に望楼跡らしい出丸があります。)

(↓ 模擬の望楼が建っていました。姫の望楼伝説の案内板があります。)

細川興元はその後谷田部(茨城県つくば市)にも6200石を領し、藩庁は参勤交代に便利な谷田部陣屋に移した後も茂木陣屋は残し、明治を迎えました。天保11年(1840)の記録では、江戸屋敷58名、茂木陣屋47名、谷田部陣屋43名の藩士、その他、奥女中や足軽、門番人その他となっています。
なお、こんな少さな藩でも寛政6年(1794)、茂木、谷田部の両地に藩校弘道館を設立しています。
(↓ 城下に茂木藩陣屋跡の石碑が建っています。遺構は残っていませんが、西側の橋は、御本陣橋と呼ばれているそうです。)

城の東方1700mにある曹洞宗塩田山能持院は、茂木知基により貞応元年(1222)に創建、文明年(1471)11代知持の代に小田原海蔵寺の僧、模堂永範大和尚により中興開山され、以後茂木氏とその後の細川氏の菩提寺となりましたが、この間2回の火災で伽藍は消失しました。しかしこの総門(山門)は難をのがれ約550年前の姿を保ち重要文化財に指定され、梁上に能持院の七不思議といわれる火伏せの斧跡があるそうです。

境内には、茂木藩細川氏9代の墓所があります。墓には墓石がなく、その代わりに一本の杉の木が植えられその前に没年月日を陰刻した石灯籠が設けてある、全国でも珍しい墓所です。なお、茂木家の歴代墓所はどこに?茂木城を出て424年、その間に埋もれてしまったのでしょうか。

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