スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

算数・数学教育の国際比較

2006-06-25 07:50:03 | コラム
エリクソン、Volvo、SAABを始めとする先進技術産業で成り立っているスウェーデンだが、学校教育における算数・数学の出来は、どうも低下傾向のようだ。OECD諸国間の国際比較(PISA)でも14位と、OECD平均をかろうじて上回る程度だ。一方で、OECD諸国の中で1位はフィンランド、その後、2位:韓国、3位:オランダ、4位:日本、と続く。

スウェーデン人の友人と一緒に経済学部の様々な授業を履修してきて気がついたことは、ここの経済学部の大学生はあまり数学ができないこと。だから、ややこしい計算や数式が出てくると、とたんに私が教えてあげる立場になって、結構:-) 誇らしく思ったりしたものだ(私が高校時代に理系だったこともあるが)。一方で、英語やスウェーデン語での議論になると、やはりなかなかついていけないこともあって、せっかくの高揚感もすぐに失墜してしまう・・・。いくら言葉の面で不自由がほとんどなくなっても、喋ること・議論することに関しては、スウェーデンの友人にはかなわない。

こちらの数学のレベルの低さについては、スウェーデン駐在経験のある日本人も「スウェーデン社会事情」(江上洋一著)という本に書いている。10を3で割って、あとで3を掛けるという計算をするときに、あるスウェーデン人の同僚が暗算ができず、電卓を取り出した。そして、10÷3×3と打ち込むと、9.9999999999と答えが出てきたのだそうだ。つまり、10÷3の段階で3.3333333333になり、それに3をかけるということになるためだ。その日本人が答えは暗算で簡単に10と出ると主張しても、いや電卓が正しいに決まっている、と譲らない。いや、電卓は正しいけれど正確だとは限らない、と言っても聞く耳を持たなかった、という笑い話だった。(電卓といっても、関数計算などができる電卓だと、ちゃんと10と出てくるようだけれど。)ちなみに、江上氏の著書は1991年出版とちょっと古いものの、日本人から見たスウェーデンでの生活事情についてバランスよく書かれていて、良くも悪くもとかく誇張されがちなスウェーデンの生活事情を知るのにいいと思う。

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数学力の低下はスウェーデン政府にとっても頭の痛い問題だ。ついこないだも、大学入学選考における数学の内申点に重みをつけることで、より多くの生徒に高度な数学を履修し習得するよう促す、という決定を行っている。

そんな中、日刊紙DNのあるコラムニストが、アメリカの研究者による算数・数学教育の国際比較調査 "The Teaching Gap" (by J. Stigler & J. Hiebert) を取り上げて議論している。アメリカ、ドイツ、日本の学校における算数・数学教育をビデオ撮影し、授業の仕方の違いがいかに生徒の数学習得力に影響を与えているかを調べているのだ。ちなみに、日本は優等国の代表、アメリカが劣等国の代表、ドイツがその中間、という位置づけで、成績の違いの原因を探ろうとしている。

アメリカでは、各授業の始まりに、まず教師が算数・数学の典型的な練習問題の解き方を示す。その後、残りの時間を使って、似たような練習問題を生徒にひたすら解かせる、という形で授業が進んでいくのだそうだ。

ドイツでも、授業の始まりに教師が練習問題の解き方を示す。しかし、示される例がアメリカのそれよりも高度なのだそうだ。でも、その後はアメリカと同じように、生徒は先生がやったやり方で、似たような練習問題を解いていくのだそうだ。

さて、日本はどうだろう。日本では、教師がまず典型的な練習問題を示すのだそうだ。だが、解き方をいきなり示すのではなく、まず生徒にどんな解き方ができるか考えさせる。教師は生徒にアイデアを発言させ、みんなでそれぞれのアイデアがいいのか、悪いのか、議論させる。たとえ間違ったアイデアでも、それがなぜ間違っているのか、生徒に考えさせる。

3カ国の比較で、このような違いが浮き彫りになったという。この調査を行ったStiglerとHiebertは、授業の仕方におけるこの違いに、算数・数学とは何か?という根本的な問題に対する教師の捉え方が反映されているのではないか、というのだ。

つまり、アメリカでは、算数・数学はあくまでもツール(解き方)を集めたものに過ぎない、と考え方が強いのだそうだ。生徒が授業の中で何を習得すべきか?という問いに対して、多くの教師が「ツールが使いこなせるようになること」と答えているのだそうだ。だから、解き方を例示した上で、練習問題をひたすら解かせる。

一方、日本では、算数・数学は概念・事実・ツール(解き方)を含めた総合的なもの、という認識が強いのだそうだ。だから、授業の狙いも、新しい方法で考えることを生徒に促し、算数・数学の様々な要素の間の関連性について発見させること、とされているのだそうだ。

成績では、この2国の中間であるドイツも、アメリカ型に近いのではないか、とされる。また、この比較研究には含まれていないスウェーデンの算数・数学教育に関しては、このコラムニストは、やはりアメリカ型、つまり、概念の暗記とツール(解き方)の反復、に近いのではないかと見ている。

これを踏まえたうえで、このコラムニストは「Matematik är inte främst ett antal metoder att nöta in genom många upprepningar av likartade uppgifter. Matematik är ett sätt att tänka, en värld att upptäcka.」つまり「数学というものは、似たような問題の繰り返しによって、ただ単に各種のツール(解き方)を頭に詰め込む、というものではない。数学とは、頭を働かせる一つの方法、そして、発見すべき一つの世界なのだ。」と締めくくっている。つまり、日本の算数・数学教育を大いに褒めているのだ。
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このような国際比較は、調査に使われたサンプルが本当にその国の典型例なのか、など様々な問題があるかもしれないが、算数・数学そのものに対する考え方が、授業の仕方に現れている、という指摘はなるほどと思う。算数・数学のように、小学校低学年から長い年月をかけて積み重ねていく科目は、最初の基礎段階がとても重要なのではないかと思う。自分の頭を使って、問題を処理していけるか、ということが、算数・数学、そして科学そのものに対する興味・関心へとつながり、さらに、それがその後のレベルの高い算数・数学の学習を容易にしていく。私の小学校時代の土岐先生も、様々な教育法を用いて試行錯誤しながら、生徒の側から興味・関心を引き出そうとしていたのを思い出す。今から思うと、とてもstimulativeな授業を受けていたのだと、感謝する。

ただ、日本の数学教育も中学・高校と受験教育色が濃くなっていくにつれ、詰め込み勉強になっていく感じは否めないと思う。もちろん、いくら詰め込み勉強であっても、高度な練習問題に取り組んでいくうちに、暗記ごとの裏にある理屈や仕組みについて自分の中で理解が深まっていく、ということはあるけれど、これはできる生徒の話であって、そうではない生徒にとっては、数学は「退屈な機械作業」に過ぎないのではないかと思う。こうやって、日本の数学教育が他の国で褒められている今こそ、その褒められている部分をもっと伸ばす努力をしてはどうだろうか、と思う。


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