スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

あれから20年 (1)- パルメの外交

2006-03-06 17:32:31 | コラム
スウェーデンには、人々から慕われてきた人は短命でこの世を去ってしまう、というジンクスがあるのだろうか。第2代事務総長として国連の発展に不可欠な役割を果たしたDag Hammarsjöldは、コンゴ内戦の調停のさなかに、飛行機事故でこの世を去った。人々から広く愛されていた女性外務大臣Anna Lindhは2003年のユーロ国民投票の直前に、ストックホルムの老舗デパートNKで刺殺された。そして、それと同じくらい大きな事件が1986年に起きた。この2月末で、それからちょうど20年が経つ。

2月28日、冷たい冬の夜。一組の夫婦が映画を見に行くことに決めた。自宅から地下鉄に乗り、ストックホルム中心部にある映画館に向かった。息子とそのガールフレンドと落ち合い、映画を楽しんだ。映画の後、息子らと別れてこの夫婦が映画館をあとにし、数百メートル歩いたところで、歩道で待ち構えていた男が近づき、発砲した。事件を目撃したタクシーの運転手の通報によって、救急隊が駆けつけたが、男性のほうはほぼ即死だった。しかし、事件のそれ以上の重大さに気がつかない警官や救急隊員らに対し、妻のほうが叫んだ。「これは私の夫、内閣総理大臣よ!」

そう、射殺されたのは時の総理大臣Olof Palmeだったのだ。メディアに情報が錯綜する中、最初の速報がラジオで流れたのは、事件から2時間近くが経った深夜01:10だった。「Sveriges statsminister Olof Palme är död.(スウェーデンの首相オロフ・パルメが世を去った。)・・・」と始まる、このときのラジオ速報に人々は耳を疑った。そして、今でもこの時の放送が記録に残っている。
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このOlof Palmeというのがどういう人物かというと、社会民主党の党首、そしてスウェーデンの首相として、長年活躍した人だったのだが、彼の名を世界に轟かしたのは、彼の進めた外交政策だった。アメリカの繰り広げるベトナム戦争を、西側諸国の首相として初めて、公に批判したのだ。さらに、第二次大戦後もなお残っていた帝国主義的な植民地支配に真っ向から反対し、第三世界の途上国の問題に、スウェーデンの外交政策の重点を置こうとした。

Olof Palmeが政治家として自らの価値観を形成した1950年代から70年代にかけては、冷戦の真っ只中だった。世界が東西両陣営に分かれ核兵器を互いに向けていがみ合い、ベトナムを始めとする途上国では彼らの代理戦争が起きていた。ハンガリーの民主化運動やチェコの「プラハの春」はソ連の戦車に押しつぶされ、一方で西欧でもスペインやギリシャが独裁者によって支配されていた。南アフリカではアパルトヘイトが行われていた。そんな中、第二次大戦以前から中立・非同盟を掲げてきたスウェーデンの立場を利用して、この理不尽な世界秩序にクサビを打てないかと考えたのだ。

1972年、国民に向けたクリスマス談話の中で、アメリカによるベトナム北爆、とりわけ、ちょうどその日に起きたハノイの空爆を、ナチスの行為と並べて、ホロコーストと呼んだ話はスウェーデンでは有名だ。

”… Därför är bombningarna ett illdåd och av det har vi många exempel i den moderna historien. De är i allmänhet förknippade med ett namn: Guernica, Oradour, Babi Jar, Katyn, Lidice, Sharpvillem Treblinka. Där har våldet triumferat. Men eftervärldens dom har fallit hårt över dem som burit ansvaret. Nu fogas ett nytt namn till raden: Hanoi, julen 1972.”

- これらの爆撃は卑劣な行為であり、現代の歴史には例に暇がない。ゲルニカ、オラドル・・・(そして、その他の残虐行為)。これらは一般に一つの名前(ホロコースト)で象徴される。暴力はこうして勝利を手にしたかに見えた。しかし、その後の世界は、これらの行為の責任者に厳しい宣告を下すことを厭わなかった。そして、今、一つの名前がこの残虐行為のリストに新たに加わった。1972年クリスマス、ハノイ。


現職の首相として、ここまで言ってのけたのだ。彼の談話に、反米・反戦感情の強かったスウェーデンでは多くの国民が拍手を喝采した。当時は多くの西側諸国で若者を中心にベトナム反戦運動が起きていたが、政府の多くが体制側として、それらを押さえ込もうとしていた時代だ。スウェーデンでは政府そのものが味方についてしまったのだ!もちろん、この大胆な行為をやりすぎと批判する人々もいた。それまでにも既に冷え切っていたアメリカとの外交関係は、さらに危機的な状況に陥った。

大国の帝国主義を批判する一方で、国際紛争の調停の場としての国連を中心にすえた外交政策を展開した(この点は、彼に限らず、スウェーデンの外交政策の柱である)。80年代に勃発したイラン=イラク戦争では、首相と兼任で国連の仲裁者を担当している。さらに、第三世界を足繁く訪問してもいる。(統計によると、1965年~1989年の間のスウェーデンの公式訪問の37%が第三世界だったという。1990年以降の18%という数字と比べると、その差は顕著だ。)特に、独立して間もない新興国の支援に前向きだったという。

「どうして、そこまでムキになって、何でもやろうとするのか?」という当時のデンマーク首相の問いかけに対し、Olof Palmeを代弁して、彼の前任の首相Erlanderがこう答えている。「小さな国で小さな言葉しか持たない我々の思いを世界に発するためには、はっきりと分かりやすく、しかも力のこもった行動を取らないとダメだ、とOlofは考えているのだよ。」

(続く)


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5 コメント

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スウェーデンの偉大な人々 (snowkoala)
2006-03-07 21:32:46
Olof PalmeやAnna Lindh、Dag Hammarsjöldなど偉大な人達は早くにこの世を去っていくのは悲しいことですが、彼らが残してくれた精神を引き継いでいるスウェーデン人はすごいな~と思います
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Unknown (TT)
2006-03-08 14:56:59
日本語の記事をネット上で見付けましたので一応。



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未解決のまま20年=パルメ首相暗殺事件-スウェーデン



 【ロンドン28日時事】平和運動家として知られたスウェーデンのオロフ・パルメ首相が1986年に暗殺されてから、28日で丸20年が経過した。犯人検挙に結び付く手掛かりはいまだ見つからず、事件の真相は闇に包まれたままだ。

 パルメ氏は86年2月28日夜、帰宅途中に何者かに射殺された。ベトナム戦争反対や貧困追放を熱心に唱えたカリスマ的指導者の暗殺事件は、国全体に大きな衝撃を与えた。実行犯として89年に起訴された唯一の人物は証拠不十分で釈放され、一昨年死亡。捜査は現在も続けられているが、全容解明は不可能との見方が大勢だ。 

(時事通信) - 3月1日7時2分更新
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Re: スウェーデンの偉大な人々 (Yoshi)
2006-03-09 01:46:00
第3回目に書くと思いますが、今のスウェーデンの政治を見渡しても、それをちゃんと引き継いでいてくれている人が、なかなか見当たらないのですよ。悲しいことに・・・。
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Re: 時事の記事 (Yoshi)
2006-03-09 01:47:47
ありがとうございます。



要点が端的に伝えられていますね。



記事の書くとおり、一部のスウェーデン人にとってはまさにカリスマ的存在だったようですね。
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残念 (snowkoala)
2006-03-10 09:07:56
スウェーデンの政治家はちゃんとしているのかな~と思っていましたが、実情はそうでもないのですか?ちょっとガッカリですね

でもいつも楽しみに読ませていただいています!
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