スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

国連の60年、ハマーショルドの100年

2005-12-11 09:14:39 | コラム
NHKの『地球ラジオ』のインタビューは終わりました。

アナウンサーとの相槌のタイミングについて、打ち合わせが不十分だったために、一文一文をどのような間隔で伝えればよいかが分からず、結果的に私が一方的に喋るだけとなってしまったのが、心残りですが。

私のもともとの草稿は、もっと長いものですが、時間の関係で大幅縮小となりました。もちろん、時間を考えたら当然ですが。以下が、もとの草稿です。

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第二次世界大戦後に国連が創設されてから、今年で60年になる。

次第に深刻化する冷戦において、世界各国が東西陣営に分かれて力比べをする中で、小国であるスウェーデンは紛争に巻き込まれればひとたまりもない。そのため、スウェーデンは国連を通じて、中立国の立場から世界の平和を実現しようと努力してきた。日本が今年、原爆の被爆から60年を迎えるのと同じように、国連を外交政策の中心においてきたスウェーデンにとって国連の60周年は大変に感慨深いものである。

それと共に、今年はダーグ・ハマーショルドの生誕100周年の年とも重なっている。ダーグ・ハマーショルドというのは、国連の第二代事務総長を務めたスウェーデン人である。

時は1953年。創設されてまだ間もない国連はもう既に危機に陥っていた。アメリカやソ連などの大国は、国連を利用して自国に都合のいい国際秩序を作り上げようとしていた。1950年に勃発した朝鮮戦争では、アメリカ主導で国連が介入したため、国連の中立性が疑問視されていた。ノルウェー人の初代事務総長は混乱の中でポストを追われる。

後任の事務総長は、東西の対立の中でなかなか決まらなかった。そこで挙がった名前がダーグ・ハマーショルド。彼は経済学博士号を取った後に、スウェーデンの財務省や外務省で官僚としてのキャリアを積んでいたものの、スウェーデンの外ではまったく無名だった。国連を舞台に争う大国には、中立国スウェーデンの出身で、まだ若く無名なハマーショルドを事務総長のポストにつけることで、イェス・マンとしてうまく操って、国連を自国にとって都合のよいものにする目論見があったとされている。

しかし、そんな目論見とは裏腹に、ハマーショルドは次第にリーダーシップを発揮し、独自のイニシアティブで動くようになる。国連という組織はそもそも加盟国から成り立つ調整機関に過ぎなかった。しかしハマーショルドは、国連に与えられた責務である平和の実現のためには、国連が一つの組織として、ある程度独立した立場から、積極的に行動していくべき、と考えていたのだ。それまで、事務をつかさどるだけという傾向の強かった事務総長の職務を次第に改めていき、冷戦の真っ只中の国際政治で表舞台に立とうとした。そうすることで、まだ未熟であった国連が、一つのシステムとして効果的に機能するように変えていったのであった。

もちろん、意表を突かれたのは、ソ連やアメリカなどの大国であったが、一方で、小さな国々や独立して間もない国々が彼の活躍に期待した。そして、彼はその期待に応えべく、様々な危機の打開に努力した。

具体的な活躍としては、当時、国際的に孤立していた中国の北京政府に乗り込んで、捕虜になっていたアメリカ兵を対話によって解放させたり、スエズ運河を巡るエジプトと英仏の対立では、外交的解決を図ったりした。さらに、アフリカのコンゴの紛争に際して、現地に積極的に足を運び、解決策を探ろうとした。このときに初めて国連平和維持軍という組織を立ち上げている。

残念ながら、1961年、コンゴ紛争での調停に励む途中に飛行機事故で命を落とす。彼の遺品から国連憲章が見つかり、死ぬまで国連憲章を離さなかった事は今日に至るまで語り継がれる。若くして亡くなった彼の人生が一つの英雄譚として語られる一方で、少数の国の強大な力によってではなく、積極的外交と対話、そして国連を紛争調停の要にするという、彼が人生を賭けて追求した志は現在の国連にも受け継がれている。

今年は彼の生誕100周年記念ということで、彼の人生と思想をたどるイベントが、生誕地であるヨンショーピン(スウェーデン中南部)や彼が学んだウプサラなど、スウェーデン各地で催された。ちなみに、彼のゆかりのあるウプサラ大学の政治学図書館では、図書館の一つが“ハマーショルド図書館”と名づけられたりもしている。

国連が創られてから60年の現在であるが、近年のユーゴスラヴィア紛争やルワンダ内戦、最近ではイラク戦争に際して、その無力さが露呈し、国連そのものの存在意義が問われるまでに至っている。国連の改革を取ってみても、アメリカや中国によってそれが阻まれかねない状況だ。しかし、ハマーショルドが事務総長を務めた当時を振り返ってみれば分かるように、このような危機は今に始まったことではなく、同じような危機を国連は何度も経験し、何とか乗り越えてきたのだと分かる。それを考えれば、現況にも少しは楽観的になれる。現在の危機を乗り越えられるかどうかは、現在の舵取りを担う人間のリーダーシップに架かっているのではないかと思う。

ちょうど今、国連を救うべく努力している、注目すべきスウェーデン人が何人かいる。例えば、いま50代半ばになるヤン・エリアソンという人物は、これまで世界各地の紛争の調停に関与してきたが、今年の9月から国連総会の議長を担当している。彼は、ハマーショルドの遺志を引き継いで、混迷する国連改革を対話によってうまく実現させようと努力する理想家であり、今後の活躍が期待される人物である。また、これまで紛争が続いてきたコソボにおける国連活動で会計監査を担当し、組織の透明化に努めてきたインガブリット・アレニウスという女性は、来年から国連本部の会計監査強化に従事することが決まっている。汚職スキャンダルが騒がれる国連活動の透明化に期待がもたれている。
ヤン・エリアソンについての以前のブログ

このように、小国に過ぎないスウェーデンが国連の至るところで大きく貢献しているのには、目を見張るものがある。今後、近い将来に常任理事国の仲間入りをして、国際社会に大いに貢献していこうとする日本にとっても、スウェーデンから学ぶところはたくさんあるのではないかと思う。

<追記>
彼の人生にまつわる余談を少しだけ。彼は実は、第一次世界大戦時に首相を務めた人物の息子だった。どうやらお坊っちゃんだったようで、なんと35歳になるまで、両親の元で暮らしていたのだという。彼はスウェーデンの政府で勤務していたときから、仕事一筋の人間で、結婚相手には恵まれなかったようだ。その後、事務総長になった彼が、その大役にそこまで積極的に打ち込むことができたのは、家族を持たず、それに時間をとられることが無かったからだとも言われる。彼の活躍を快く思わなかった大国は、彼の“ホモ説”を打ち出して、彼のイメージダウンをし、それと共に国連の機能の縮小を企んだが、どうやらうまく行かなかったようだ(これあたり、国連の汚職スキャンダルによって、現在の事務総長であるKofi Annanに執拗に泥塗りをして、国連のつぶしをしているアメリカ外交と似ている)。

華やかな公職とは裏腹に、個人としての彼の内面は孤独であった。しかし、その空白さを常に満たしてくれたのは宗教心だったといわれる。彼は熱心なキリスト教徒で、“神”に対する信仰を常に忘れなかった。ただ、彼にとっての神とはキリスト教にとらわれない、より普遍的な“神”だったのではないかと私は思う。困難にぶつかるたびに、彼は自分の中のこの“神”を見つめ、進むべき道を見出そうとした。この“神”との“対談”を記録したメモが彼の死後、国連の彼のオフィスから見つかり、それをまとめた物が1963年に「Vägmarken(道しるべ)」として刊行されている。

彼は事務総長として活躍する以前は、スウェーデンの省庁の官僚であった。彼は官僚としての自分のポリシーをやり通す。つまり、官僚というのは政治に肩入れすることなく、与えられた任務を忠実に全うすべき、というものであった。彼は自分自身に厳しく、自分に“課した”人生観に忠実に従って生きた。これは、後に国連の事務総長を務めるときに、より積極的な意味で生きてくる。つまり、国連に課せられた目的の達成のためには、国連が一部の加盟国の意向に従って動くだけではなく、一つのシステムとして独自のリーダーシップを取っていくべきだ、彼は考えるようになる。

最後に、彼はウプサラ大学で学び、博士号を取っている。学部時代には、学生自治会長、という名誉の高い地位についている。彼の名前が、ウプサラ大学政治学部の図書館についていることから、それから、彼のその後の職からも、彼が学んだのは政治学や法学ではないか、と思われがちだが、実は彼は経済学で博士号を取っているのだ。彼が当時、どのような博士論文を書いたのか、調べてみる価値がありそうだ。ちなみに、彼は哲学やフランス文学の素養もあったようだ。