12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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寓句

2009年12月06日 09時27分44秒 | Weblog

正岡子規は江戸人の発句という遊びを、写生を説いて文学に仕立て直そうとしたと、Y新聞に「名人芸というべき教訓句」丸谷才一氏の記事が掲載された。それについてご紹介する。

戦後まもなくのころ山本健吉先生が写生以外にも大事なものがあるとして、「挨拶」と「滑稽」に注目し俳句感の闊達化がなされた。

ところが最近、数理計量経済学の大家高橋潤二朗氏の「観賞 経営寓句」によれば、

「物言へば唇寒し秋の風」    芭蕉
「我雪とおもえば軽し笠の上」  其角

の二句を例に引いて、このような寓意(何かにかこつけてほのめかす)句を軽んずべきでないと説いているとのことだった。 小生もこの考え方に賛同を送るものである。

俳句を文学にしたことは崇高な業績であるし、これも素晴らしいことで賛同以外に何らの否定をするものではない。しかし、単なる言葉遊びにとどまらずもう一歩人の心の中に踏み込んだ滑稽のようなものがあってもいのではないかと常々思っているのである。

正岡子規の弟子にあたる高浜虚子 昭和25年の句に「去年今年貫く棒の如きもの」がある。

 この句こそ寓意の句の最も洗練されたものとの評があって、虚子は自分の人生を我がまま一杯なことを「棒の如きもの」と表現し、実のところは、処世術はこの手に限るという処世訓だと解釈している。

しかも、自分を棒きれに見立てるという滑稽まで添えている実に秀逸な寓意の句(寓句)だと評していた。

頭のいい人たちは、こんなところまで解釈できるのかとほとほと感心した。