連日、洪水のように溢れるニュース。そのなかで人知れず流れて消えていくニュースがある。ネットでニュースを拾っている時、これを見つけた。全国紙には載らないような小さな記事だが、妙に心に残った。37年間、豊臣の埋蔵金を探し続けてこの世を去った一人の男の死亡記事であった。http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2012062200301.html 世間的に言えば、愚かな夢を追い続けた男となる。しかし、家庭も定職ももたず、たった一人で埋蔵金を探し求めるエネルギーは一体どこから生まれるのだろうか?ささやかな疑問は少しずつ広がり、心の襞に沁み込んでいた。
記事によると、死亡したのは今年の2月18日(享年77歳)であるという。この記事がネットに載ったのは6月23日。4カ月以上も経過している。それほど小さな記事ということであった。多田銀銅山(兵庫県猪名川町)で埋蔵金掘りを始めたのは1975年。40歳の時。古文書による豊臣秀吉の埋蔵金伝聞が頼りであった。当初は、他に3人の仲間がおり、4人で始めている。しかし一人去り二人去り、数年後にはたった一人になった。それでも彼は一人で埋蔵金探しを続けた。マスコミにもとりあげられるようになり「多田銀銅山の鈴木さん」として知られ、埋蔵金ファンのスターにもなったという。著書もあると言うから。資金集めの一つにもなっていたのだろう。
鈴木さんは浜松市の出身であった。彼がどんな人でそれまで何をしていたのかは全く分からないのだが、40歳にして埋蔵金掘りにすべてをかけたというのだから、それなりの過去であったことは想像できる。一人になっても、マスコミに知られ埋蔵金ファンのスターとなり、引くに引けなくなったのだろうか。人生の半分を費やしたこの人の生き様が気になる。
埋蔵金を探す目的は当然ながら、一獲千金の金儲け。世間をあっと言わせて、後は夢の豪華な生活を送ることであったろう。まさに私利私欲の塊であったに違いない。だが、単なる我慾だけだったら、他の3人が去っていったように、途中で諦めるはず。一人になっても続けた理由は、我慾ももちろんあるが、それだけではなかった気がする。
現在の科学をもってすれば、埋蔵金の有無を知ることはかなりの確率でできる。超音波による探索なら地中かなりの深さまで手に取るように分かる。埋蔵金を探すことだけが本当の目的なら、それを使えば短期間で結論がでる。彼はまったくその気配がなかった。あくまでも自らの手で穴を掘り、埋蔵金を探し求めた。科学を利用しないことをロマンにたとえる人がいるかもしれないが、そんな安ぽい話ではないと思う。
鈴木さんの晩年は埋蔵金を探すという行為そのものが目的となって、埋蔵金があるとかないとか言う話はどうでもよかったのではないのだろうか。もっと言えば、埋蔵金を探す行為をしていることに逃げ込んだともいえる。一種の逃避行動であり、自己満足の塊ともいえる。それが継続するエネルギーだったのではないだろうか。その内なるエネルギーの凄さを、逆に感じる。
もう一つ考えられる。鈴木さんはマスコミ取り上げられ、有名人となった。本も出した。彼の本来の目的はここではなかったが、ある種の目的(名誉欲とか有名人としての欲)が達成できてしまった。あとは埋蔵金探しを続けると言う残務整理みたいな感覚であったのかもしれない。それでも逃げられない呪縛はあったと想像する。
他人は言うに違いない。好きなことをやり続けて死んだのだろうから、きっと満足しているし、幸せだったのだろう、と。
もし、彼が死ぬ間際に、自分の人生をどう思いますか、と訊ねられたなら、「埋蔵金探しをしたことは後悔してません。探しきれないことは残念だが、ここまでやったことには満足してます」と、きっと答えるだろう。
だが、それは額面通りには受け取れない。後悔に溢れていたはず。自らの愚かさを強く感じてもいたにちがいない(あくまでも想像にすぎないのだが)。ただそれを口に出すことは絶対にできない。生き様を全否定することになるからだ。
そこまで想像できたとしても、なぜか彼を羨ましく思う気持ちが拭い去れない。自分のやりたいこと、好きなことをやりぬくことは簡単ではない。いやむしろできないのが普通の感覚だ。そんな社会通念をぶち壊した夢追い人であったと思う。だから羨ましくも感じるのだ。けっして誉められた人ではないのだが、羨ましく思ってしまう気持ちも捨てきれない。
鈴木さんは定職につかず、家庭も持っていなかった(記事による)。今はやりのノマドの先駆者(広い意味で)とも言える。民主主義がある程度定着した近代社会では、自由を主張することはかなり容認されている。しかし、自由な生き方(自分勝手に生きるとは違う意味)ほど、かなり大きなリスクがあることを、彼は我々に伝えているのかもしれない。合掌。
*巻頭の写真はヤマドリゼンマイ。酸性土壌に多く植生。春はゼンマイのように葉が巻いている。
英語では「トレジャーハンター」と言いますから、日本語の夢追い人とはチョッと違ってますよね。
狩猟の感覚と同じだとしたら、根が深い!原始時代まで戻っちまいますもんね。かなり哀しい物語を秘めている…。
糸井重里が遊び感覚でやってたテレビ局絡みの、徳川埋蔵金探しとは、ちと違う。
新党をつくっては壊す政局ハンターのイッチャンの埋蔵金探しも、決定的に違ってると思うんですが…。
国民の生活が第一などと言う政治家ほど、国民のことを考えていません。国民の生活を考えるなどとスローガンに挙げるだけで、偽物です。政治家は黙ってても国民の生活を考えるのが当たり前。それをあえて口にするだけ変だと、残念ながら気付かないようで。
最近、日本人であることに疲れを覚えます。自分たちの愚かな選択がこうさせたこととはいえ、あまりにひどい日本になったような気がします。残念です。