![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/75/b2fb0117ca8704b3b8ebac40d6f844be.jpg)
キリギリスが遊んでいる間、一生懸命働いているアリ。その結果、キリギリスにその報いがくるという、ご存じのイソップ寓話。この結末に最近は昔と違うストーリーがついている。働き過ぎて過労死するアリがいたり、キリギリスの方が楽しい人生だよと、言う人もいる。この方が現実話に聞こえるから、嘆かわしい。教育の問題なのか、世相なのか。昔聞いたイソップ物語が、現実の社会と適合しなくなっているのだろうか。「派遣村」とやらが登場してくる年末。ちょっと考えてもいい話題かも。
現代では、アリとキリギリスの立場が逆転したのではないだろうか。福祉や弱者救済という話になると特に感じる。
弱者の救済、福祉最優先を標榜する政党や政治家が登場すると、それを否定する言葉などなかなか見つからない。困った人を助けるのは人道上の問題だし、寝る場所がない、食べ物がないという現実が切実に迫っているからだ。だが、こうした善意の「策」を利用する人がことも現実なのである。派遣村の村長として知られた湯浅誠は、こうした疑問に対し、「そんなことを言っている場合ではない」「善意を利用する人との線引きなどできない」と反論する。すべての人が救済の対象なのだと力説していた。たしかに、困っている人を助けるという、謳い文句に抵抗するのは難しい。
派遣村の村長がいくら防御しも、宿を提供された人たちが翌日に200人以上行方不明となったり、支給された就活費用を飲み代に変えて騒動を起こしたり、不正に使用する例が頻発した。就職斡旋の窓口にほとんど人が集まらないという現実もあった(2010年1月)。派遣村に人を集めるために活動する人さえいた。何かがおかしいと感じた人は多かったはずだ。
たしかに働きたくても働けない人や、派遣切りで路頭に迷う人もいる。もし500人のうちの10人でもそういう人がいたなら、やはり手を差し伸べなければならない。でもそのために無関係の490人が恩恵にあずかるという状況を作りだしてもいいのだろうか。それが福祉の本質なのだろうか。どうしても疑問が消えない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/a2/6ac09b36ddb5a403bc61192d3b39ed0e.jpg)
日本憲法25条の生存権に基づいて、最低限度の生活を保障された生活保護法というものがある。身障者、老齢、子育て、いろいろな角度から生活が保障されている。例えば31歳の単身世帯では住宅扶助も含めて137,400円。高齢者夫婦で121,940円、母子世帯で177,900円が支給される(いずれも平成17年のデータ)。地方によって差があるものの、思った以上に多いというのが第一印象であった。この金額が適正かどうかは別にして、生活保護を受けずに働いている人でこれ以下の給料で生活している人はたくさんいる。生活保護費をもらった方が一生懸命働く人より楽な世界が現実にあるということなのだ。働きながら生活する人が損をしていいのだろうか。一方では、少ない年金をもらうより生活保護をもらった方がいいという声も聞こえてくる。
たしかに市民生活をする人にはアリ型の人もいればキリギリス型の人もいる。だが、憲法で守られるべき人は、当然ながらアリが最優先でなければならない。世に言うセーフティネットは一生懸命働いていてもうまくできなかった人たちのものでなければならない。キリギリスにも生存権があるからと言って、すべて一緒にしていいわけはない。アリ側から見れば絶対に釈然としない。こうした矛盾をどう解決すればよいのだろうか。
現実に次のように語る若者がたくさんいる。
「年金なんか払わないよ。歳とって本当にもらえるかどうかも分からないし、十分に出る保証もないから。もし職がなくなったら生活保護を受ければいいだろう」
明らかな間違いである。若い人が年金を払うのは義務であり、その金がリタイアした人たちの年金となる。年金は彼らの貯金ではない。彼らの年金は次の世代にゆだねるのだ。この原理がどこかに飛んでしまい、理解されていない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/9e/7bd37227899798b74b9d1b1d27fc7252.jpg)
一生懸命努力しても報われない世の中が一番つらい。アリが報われない世の中など意味もない。もし、国民がみなキリギリスになってしまったら、国は崩壊するしかない。どうも福祉政策が機能していないような気がする。年末の派遣村などは、アリよりキリギリスを助ける制度に見えてしようがない。税金を補助という名で借りながら、一切返済しないどころか、何十年にわたってもらい続けている団体もある。キリギリスに利権までつけているようなものだ。こんな世になったのは、アリでいるよりキリギリスの方がいいという考え方が台頭してきたせいではないのだろうか。働いても働かなくても、生活が保障されるなら、働かないで好きに生きていた方がいいにきまってる。だがこれは生存権の悪用であり、法に対する冒とくになる。
生活保護法の基本はやはりアリのように一生懸命働く人を保護するためのものでなくてはならない。それを最優先にした後、キリギリスの面倒を見るというのが順序だ。こうした手順を踏むために政治手法があるはずなのだ。
バブルが絶頂の頃、急激に経済成長を続ける日本を苦々しく思っていた欧米人たちは、日本人をアリに揶揄した。イソップ寓話から生まれた話ではない。軽蔑を込めた明らかな日本バッシングであった。きわめて不愉快であったことを記憶している。アリよりキリギリスがいいという日本人が増えたのは、そのせいなのか?たしかに外圧に弱い日本であるが。まさか、そんな馬鹿な話はあるまい!
*イソップ寓話は紀元前6世紀ころ、ギリシャの奴隷アイソーポス(イソップ)という人が創作したといわれている。当初、アリとキリギリスは、アリとセミであったとか。ギリシャより北の欧州にはセミが少なかったからキリギリスになったと聞いた。
現代では、アリとキリギリスの立場が逆転したのではないだろうか。福祉や弱者救済という話になると特に感じる。
弱者の救済、福祉最優先を標榜する政党や政治家が登場すると、それを否定する言葉などなかなか見つからない。困った人を助けるのは人道上の問題だし、寝る場所がない、食べ物がないという現実が切実に迫っているからだ。だが、こうした善意の「策」を利用する人がことも現実なのである。派遣村の村長として知られた湯浅誠は、こうした疑問に対し、「そんなことを言っている場合ではない」「善意を利用する人との線引きなどできない」と反論する。すべての人が救済の対象なのだと力説していた。たしかに、困っている人を助けるという、謳い文句に抵抗するのは難しい。
派遣村の村長がいくら防御しも、宿を提供された人たちが翌日に200人以上行方不明となったり、支給された就活費用を飲み代に変えて騒動を起こしたり、不正に使用する例が頻発した。就職斡旋の窓口にほとんど人が集まらないという現実もあった(2010年1月)。派遣村に人を集めるために活動する人さえいた。何かがおかしいと感じた人は多かったはずだ。
たしかに働きたくても働けない人や、派遣切りで路頭に迷う人もいる。もし500人のうちの10人でもそういう人がいたなら、やはり手を差し伸べなければならない。でもそのために無関係の490人が恩恵にあずかるという状況を作りだしてもいいのだろうか。それが福祉の本質なのだろうか。どうしても疑問が消えない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/a2/6ac09b36ddb5a403bc61192d3b39ed0e.jpg)
日本憲法25条の生存権に基づいて、最低限度の生活を保障された生活保護法というものがある。身障者、老齢、子育て、いろいろな角度から生活が保障されている。例えば31歳の単身世帯では住宅扶助も含めて137,400円。高齢者夫婦で121,940円、母子世帯で177,900円が支給される(いずれも平成17年のデータ)。地方によって差があるものの、思った以上に多いというのが第一印象であった。この金額が適正かどうかは別にして、生活保護を受けずに働いている人でこれ以下の給料で生活している人はたくさんいる。生活保護費をもらった方が一生懸命働く人より楽な世界が現実にあるということなのだ。働きながら生活する人が損をしていいのだろうか。一方では、少ない年金をもらうより生活保護をもらった方がいいという声も聞こえてくる。
たしかに市民生活をする人にはアリ型の人もいればキリギリス型の人もいる。だが、憲法で守られるべき人は、当然ながらアリが最優先でなければならない。世に言うセーフティネットは一生懸命働いていてもうまくできなかった人たちのものでなければならない。キリギリスにも生存権があるからと言って、すべて一緒にしていいわけはない。アリ側から見れば絶対に釈然としない。こうした矛盾をどう解決すればよいのだろうか。
現実に次のように語る若者がたくさんいる。
「年金なんか払わないよ。歳とって本当にもらえるかどうかも分からないし、十分に出る保証もないから。もし職がなくなったら生活保護を受ければいいだろう」
明らかな間違いである。若い人が年金を払うのは義務であり、その金がリタイアした人たちの年金となる。年金は彼らの貯金ではない。彼らの年金は次の世代にゆだねるのだ。この原理がどこかに飛んでしまい、理解されていない。
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一生懸命努力しても報われない世の中が一番つらい。アリが報われない世の中など意味もない。もし、国民がみなキリギリスになってしまったら、国は崩壊するしかない。どうも福祉政策が機能していないような気がする。年末の派遣村などは、アリよりキリギリスを助ける制度に見えてしようがない。税金を補助という名で借りながら、一切返済しないどころか、何十年にわたってもらい続けている団体もある。キリギリスに利権までつけているようなものだ。こんな世になったのは、アリでいるよりキリギリスの方がいいという考え方が台頭してきたせいではないのだろうか。働いても働かなくても、生活が保障されるなら、働かないで好きに生きていた方がいいにきまってる。だがこれは生存権の悪用であり、法に対する冒とくになる。
生活保護法の基本はやはりアリのように一生懸命働く人を保護するためのものでなくてはならない。それを最優先にした後、キリギリスの面倒を見るというのが順序だ。こうした手順を踏むために政治手法があるはずなのだ。
バブルが絶頂の頃、急激に経済成長を続ける日本を苦々しく思っていた欧米人たちは、日本人をアリに揶揄した。イソップ寓話から生まれた話ではない。軽蔑を込めた明らかな日本バッシングであった。きわめて不愉快であったことを記憶している。アリよりキリギリスがいいという日本人が増えたのは、そのせいなのか?たしかに外圧に弱い日本であるが。まさか、そんな馬鹿な話はあるまい!
*イソップ寓話は紀元前6世紀ころ、ギリシャの奴隷アイソーポス(イソップ)という人が創作したといわれている。当初、アリとキリギリスは、アリとセミであったとか。ギリシャより北の欧州にはセミが少なかったからキリギリスになったと聞いた。
マネックスGの代表取締役 松本大と元産業再生機構の専務だった冨山和彦の対論集です。
この中で彼らは主張します。
「問題の本質は『若者の所得を収奪する団塊世代』である」
そのコンセプトに沿って世代別選挙制度の実施など、10の提言をしてるのですが、“これで日本は若返る”としてます。極言すれば「姥捨てのススメ」というわけです。確かに動物には祖母と言う存在は極めて稀、
つまり生殖活動が終わったら、早期退場をと言うわけです。それを言われると返す言葉もない。恐ろしい時代になりました。
彼らが作る社会が幸せなら問題ないですが。なんとなく不安に思うのも、年をとったせいなのかもしれません。
団塊の世代が残した負の遺産の大きさも気にはなります。それを許した我々の責任でもあると思います。
ふりかえれば、私自身、まじめなアリであったとは思えません。残念ながら、反省すべきことがあまりにも多い。
やはり、老兵は静かに消え去るのが、正しいようで。
私達(団塊)の頃の話をすると「時代が違う」と言われて黙るしかなくなるのですが、どんなに少ない給料でも自分でやりくりして、トイレもお風呂も共同の4畳半一間の自由がこの上もなく心地良かったという記憶があるのですが・・・ 「生きる」というエネルギーは、そういう場所から生まれる、と思ってしまうのですが・・・
息子を自立させられない親というのも団塊の世代が残した負の遺産と呼ぶのでしょうか?
私のようにひねくれ者には、統計のとり方、場所、目的が気になります。こうしたデータは都会と地方では違いますし、その内容もいろいろあります。家業を継ぐ人の多い地方では同居が多いし、介護のための同居もすくなくありません。その記事がこうした中身まで言及しているかどうか。もしそういうことに触れない記事なら、データーの信用性より、記事の意味を疑います。
しかし、概念は理解できます。昨今、親離れしない子、子離れしない親をよく見かけますから。
ベビーブームで大量に登場したベビーブーマーたちが大人になるころから流行り出したニューファミリー思想。マスコミが団塊の世代を利用したのかもしれませんが、この言葉が定着したころから、家族の在り方が少しずつ変化したと思います。その意味と広い意味でこれも団塊の世代の負の遺産と言えると思います。もちろんこれだけではありませんが。
最後にいいたいのは、世代論に逃げては絶対だめだと思います。時代が変わっても悪が正に変わることはありません。原理原則は不変です。だから世代が違っても言うべきことは言うべきです。実は昨日の夜も酔っぱらってこんな話をしてました。
言うべきことを言わない。これが団塊の世代の特徴なら、これも負の遺産と言っていいでしょう。
すみません長くなりました。
長くなってすみません。
歯車が少しずつ狂っているのが、今の日本です。政治家も悪いけど、それを選択している国民の問題が浮き彫りになっているとも言えます。
本当に守らなければならない人ほど疎外されているのですから。
意識を持った人が集まれば、日本は相当に力を発揮できる国だと私は信じてます。
それにしても今の日本の政治は末期的症状に思います。