原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

釧路のシンボル、幣舞橋

2011年08月16日 09時42分39秒 | 地域/北海道

 釧路市の幣舞橋は北海道の三大名橋の一つであるらしい。札幌の豊平橋、旭川の旭橋と並ぶという。どんな基準で三大名橋というのか分からないが、今や釧路の名所としてその名が知られれている。釧路を舞台とした映画や歌に必ずと言っていいほど登場する。その意味で釧路を象徴する橋であることは間違いない。なんといっても、ユニークな名前が印象的だ。幣舞とはヌサマイと読む。初めての人には絶対読めない。もちろん日本語ではない。アイヌの人たちの言葉に漢字を当てはめただけだ。だが、意外にその意味を語る文献が少ない。

アイヌの言葉で正確には「ヌサ・オマ・イ」。意味は祭壇があるところとなる。駅方面からきて橋を渡りきったところが小高い丘となっている。出世坂がある場所で、ここは昔、アイヌの人たちのシャチ(砦)であった。この場所には神にささげるイナウが立てられる祭壇があったのである。いわゆる聖地であった。江戸時代に、ここを訪れ、このことを記録したのが松浦武四郎である。

明治以降、釧路の町が徐々に繁栄し、人口が増え始める。鉄道も開通される。ところが港町がある場所と駅が造られた場所は離れることになる。釧路駅は根室や網走へと続く拠点であった。そのため港の近くに駅を作ることができなかったのである。駅と港の間には釧路川が流れていた。駅周辺と港を結ぶための橋が作られたのが1889年。この橋は愛北橋と名付けられていた。この橋の建造の際、周辺の開発も同時に行われた。ここで生活していたアイヌの人たちは強制的に立ち退きを命じられた。現在の鶴居村のあたりに移動したという。アイヌの人たちの聖地は幣舞町という名前で残されたのである。こうした歴史を詳細に記述したものが少ない。もう少し調べたい。

愛北橋は木造である。ほどなく崩壊し、1900年に再建された。その時から「幣舞橋」の名前が付けられた。これが初代の幣舞橋である。聖地は橋の名前となって残った。

1908年に釧路を訪れた石川啄木が駅から歩いて渡ったのが、初代の幣舞橋であった(この話は2008年9月のブログで紹介)。啄木が釧路を去った翌年の1909年に二代目の幣舞橋が完成している。その後、何回か再建され、現在の幣舞橋が五代目となる(1976年から)。

原田康子の小説「挽歌」に登場する幣舞橋は四代目であった。映画の中で見た幣舞橋はやはり違っていたが、橋の欄干部にあるモニュメントは四代目をコピーしたものであることが分かった。

(橋の向こう側の小高い丘が昔のシャチであった)

ちょっと歴史を紐解くだけでも、幣舞橋が釧路の発展と並行していることがよく分かる。三大名橋などと、過大な謳い文句など使わなくても、釧路を象徴する橋であることは十分に認知できる。

元来、三大何とかという言葉を使うだけで、ちょっと胡散臭くなる。こんな言葉はもうやめた方がいい。そういえば、釧路の謳い文句で、もう一つ、世界三大夕陽というものもある。これなど何の根拠で言っているのか全く分からない。たしかに釧路の夕陽は美しい。だけど世界のベストスリーに入るかどうかは疑問だ。ま、言ったモンの勝ちか。

数年前、幣舞橋にラッコが現れ、大騒ぎとなった。周辺の商業施設(ムー)は例年の三倍の売り上げになったと、大喜びであった。ラッコが去ると元の木阿弥。翌年から現れないラッコをひたすら待つという状況となった。アイヌの人たちにヌサ・オマ・イを再現して、祈ってもらったらどうだろうか。ラッコが再び現れるかもしれない。

ラッコはしょせん自然のもの。こちらの都合でやってはこない。こんなことを考えるから三大名所などと言ってしまうのである。意外に思うかもしれないが、釧路にはいくつか元祖と言われるものがある。例えば、炉端焼きの居酒屋は釧路が元祖だと聞いた。唐揚げのザンギも釧路式という独特のたれを使う。ザンギは函館が発祥という説もあるが、釧路の人は断固、譲らない。また今や日本中で見ることができる「いかの沖漬」。これも売り始めはたしか釧路の市場だった。市場と言えば「かって丼」がある。いまや観光名物にもなっている。工夫すれば、ラッコ以上の可能性があるものが発掘できるという証拠ではないだろうか。

(二年前、この周辺でラッコのクーちゃんが泳いでいた)

釧路をテーマとした歌の発掘もあるだろう。昭和43年に発売された「釧路の夜」(歌手美川憲一)などそこそこヒットした。これも一つの戦略に思う。

歌と言えば忘れられない曲がある。昭和33年に発売された三浦光一(古いな!)の「釧路の駅でさようなら」だ。後年、女性歌手が歌っていた。この歌は発売当時から釧路の駅で流れていた。釧路発寝台特急「まりも」の発車に合わせて流れたのである。この歌が名曲だったという話ではない。当時の思い出が蘇るという意味で忘れ難いのである。この歌はつい最近まで特急の発車に合わせて流れていた。故郷に帰って、久しぶりにこの歌を聞いた時、この歌がまだ聞けたのかと、しばし感慨にふけったほどであった。学生時代、東京へ向かうたびにこの歌に送られて出発していた。その当時は蒸気機関車であった。その匂いとともに思い出すのである。釧路を旅した人もきっと記憶に残っていると思う。残念ながら、もうこの歌は釧路駅では聞けない。何とか復活できないものなのかな、と思う。

音楽や音が街のアイデンティティーとなることはよくある。釧路の霧笛もそうであろう。二年ほど前に霧笛は廃止された。レーダー設備が完備した現在、霧笛というアナログは必要なくなった。いまや騒音扱いなのである。しかし、霧笛を愛する人たちは保存会を作り、今でも偲んでいる。この春、昔の「挽歌」が上映された。映画の中ではひっきりなしに霧笛が鳴っていいた。釧路の町が舞台なのだから無理もないが、あんなに霧笛が鳴り響いてはいなかった。が、妙に懐かしい響きがあった。音が語る時代の記憶というものがあるということである。

釧路のシンボルは幣舞橋であるが、まだまだ他に釧路を語るものが存在しているように思えてならない。

*幣舞橋:全長124m、幅33.8m。初代より約80m短く、幅は8.5倍ほど広くなっている。橋の欄干には四季の像が立てられていることでも知られている。この橋から眺める夕陽が良い。


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
16日、 (numapy)
2011-08-23 18:09:09
16日は何してたんだろう?
ここんところバタバタしてて・・
少し、ぼけてきたのかもしれません。

>アイヌの人たちの聖地は幣舞町という名前で残されたのである。こうした歴史を詳細に記述したものが少ない。もう少し調べたい。

ぜひ調べてUPしてください。
返信する
最近、つぶやきが多いから。 (原野人)
2011-08-25 16:18:44
つぶやきをブログに連動しているから、普通のブログが目立たなくなってます。申し訳ありません。
そろそろ連動はやめようかなと考えてます。
返信する
確かに・・ (numapy)
2011-08-26 23:36:32
ぜひお願いします1
返信する

コメントを投稿