後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

花春カップヨットレースの思い出

2008年03月20日 | うんちく・小ネタ

会津の猪苗代湖で桜の頃、「花春カップヨットレース」があった。猪苗代湖のそばの花春酒造が主催するレースである。大学の同級生のH氏が猪苗代湖にクルーザーを係留していて毎年このレースへ出ていた。15年くらい前に招ばれて3回ほど参加した。近くの東山温泉で前夜祭のパーティがあり楽しい時を過ごした後にヨットに戻り、H氏手製の洒落たオードブルで飲みなおす。夜が更ければヨットに寝る。

このヨットが珍しい構造である。Yamaha29のセンターコックピット艇である。太くて鈍重な形の船の真ん中にコックピットがあり、後ろ向きについた階段を下りると広々したパーティ向きのスターンルームがある。ギャレーもあり料理も出来る。スターンには大きな窓が2つついている。猪苗代湖は人家が無くいつも闇夜。スターンの窓から見える星空が綺麗である。夜風が吹いて船体を打つ風波の音が爽やかに聞こえる。聞けばH氏はパーティを楽しむために生産中止になっていたこの艇を5年間も探したという。コックピットの下の左右に長いルームがあり、大人が2人眠れる。スターンルームには4人眠れる。

次の朝快晴の空のもとで10時からレースが始まる。広く深い湖は澄み切って、磐梯山が湖面に映ってている。スタートの合図で30艇ほどのクルーザーが、風をつかみ一斉に走り出す。Yamaha29センターコックピットは太くて鈍重。遅い。みるみる抜かれてしまう。ゴールでは後ろから2、3番目になる。でもハンデキャップの点数のお陰で毎年、2位か3位になる。

その後、経済不況になり花春カップレースも中止になる。でも酒は作り続けていた。毎年、花咲く春になると、猪苗代湖のクルーザーレースのことを思い出す。

ここ2、3年、経営を拡大したらしく東京の電車の窓から「会津の地酒、花春」の広告看板を見るようになった。看板を見る度に楽しい思い出に心豊かになる。(終り)


中古ヨットの買い方(15)-ディンギーの経験をしてから買う

2008年03月20日 | うんちく・小ネタ

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クルーザーヨットの買い方の手順として、買う前にディンギーの経験をしてからのほうが良いと思う。所詮、趣味の一つだから手順なんか無視しても良い。しかしディンギー型の小型ヨットを体験した後でクルーザーに乗るとその楽しみが倍加する。楽しみが奥深くなる。何故か?と問われると説明に苦慮する。

兎に角、上の写真の左は大人2、3人が乗るディンギー、右は子供用のヨットに少年が1人で乗って出るところの写真である。大人用は長さ5メートル弱が多く、軽いので大人2人で台車に乗せて海へ降ろす。桟橋へ係留したらセイルを上げて風を掴み、桟橋を離れる。大体2人で出港し、1人が前帆を操りながら舟のバランスをとる。もう1人は舵とメインセールのシートを握り舟の向きを調整し帆走する。舟の真ん中に、センターボードを水中へ降ろす隙間が開いていて、帆走中は横滑りを防ぐために降ろす。風上45度の方向へ「のぼる」帆走をクローズホールドという走法で、追い風で風下へ下る帆走をランニングと言う。それだけの話で、いたって簡単である。 しかし、、、軽い舟なのですぐに転覆する。転覆すると悲惨である。鼻から海水を飲み、全身濡れ鼠。あわてて逆さになった舟底に這い登る。それからが一仕事。船底に上ったら、風下の方へマストが上がる方向に船体を起こす。空中へ突き出ているセンターボードを梃子にして起こす。起こしながら自分の体を素早く、舟の中へ滑り込ませる。舟が起きたと思ったら一陣の風が来てまた転覆しそうになる。それを直してセイルで風を掴み、走り出す。

この経験を何度かすると、もうディンギーはかなり上手になる。ディンギーは神経質で、過敏で、操船をチョット間違えるとすぐ転覆する。スリル満点である。それだけに風に乗って疾走しているときの爽快さは筆舌に尽くせない。それに比較してクルーザーは大きく、重く、操船の間違いを船がカバーしてくれる。やさしく、ゆったりと帆走する。それに重い鋼鉄製のキールが船底より水中に大きく突き出している。絶対に転覆しない。安心である。

ディンギーは間違いを間髪を入れずに教えてくれる。それを体験した後でクルーザーに乗ると、自分の操船間違いを船が許してくれる。従って、船にたいしてその都度、「ありがとう!」と言いたくなる。ディンギーを体験してからクルーザーに乗ると、船と会話が出来る。これも奥深い楽しみの一つである。長話は止めて、ディンギーの体験スクールは小田急江ノ島セイリングクラブでしている。そこを卒業したら、葉山マリーナでディンギーをレンタルするのも良い。レンタル料金は1年間で63000円。あるいは中古のディンギーを探して購入して、県立の江ノ島ヨットハーバーに陸置きするのも良い。その他、神奈川県内のマリーナ一覧表を見て、交通の便が良いマリーナへ連絡して、ディンギースクールの有無を調べる。

自分は25年ほど以前に江ノ島ヨットハーバーの「レッツゴーセイリング」(今は無い)というヨットスクールに通い、葉山マリーナーの年間63000円の会員になってディンギー体験を積んだ。セイリング技術は上手にならなかったが、クルーザーヨットの奥深い楽しみを現在でも毎回味わっている。最後に関係情報のURLを紹介して終わりにする。

小田急江ノ島セイリングクラブ:http://www.odakyu-yc.com/

葉山マリーナ:http://www.hayamamarina.com/

江ノ島ヨットハーバー:http://enoshima-yacht-harbor.jp/

神奈川県マリーナ一覧:http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/kanagawamarine.htm


中古ヨットの買い方(14)セイリングを楽しむために買う

2008年03月19日 | うんちく・小ネタ

@セイリングは何故人間を魅了するか?

風上へ舳先を向けて帆走する。波が船体を斜め前から打つ音が、ピチャピチャ、チャラチャラ、ザワザワ、ザブザブと次第に大きくなる。セイルが風をはらんで、マストが大きく傾く。前甲板に波がザーッと時々上がってくる。太陽の光を反射した無数の風波が一面に輝いている。この瞬間、体中がしびれたような快感に満たされる。人間の体が完全に自然と一体化し、自分が風の中に溶け込んだように陶酔する。聞こえるのは波の音と、風が帆綱をきしませる音だけ。エンジンの音が無い。静かだ。

この陶酔した境地に至るとすべての苦労を忘れる。でもそんな帆走の出来るのは4、5回に一度だけ。その爽快感を得るために冬でも足しげくヨットへ通う。

セイリングをより多く楽しむ為には2つの条件があります。ヨットの係留地が可能な限り近いこと。そして自分だけで単独帆走の出来ることです。他のクルーの忙しい仕事の都合に合わせる必要が無く、自分独りだけの都合でヨットへ行ける。

中古ヨットの買い方には、この2件を優先して買う方法も有ります。

@単独セイリングを楽しむための中古ヨットの買い方:

そうすると、なるべく近い係留所をまず見つける。その後で単独帆走が出来るような中古クルーザーを選びます。単独帆走には艇長26フィート位が最適で、自動操舵装置の有る艇にします。それからジブ・ファーラーも必要です、メイン・セイルの上下を独りでするためにレイズイ・ジャックも必要です。

小生は10年前にアメリカのジョイラックという26フィートの中古を100万円で買いました。前の持ち主は若者数人でレース出場を楽しんでたので単独帆走に必要な装備は自動操舵装置以外なにもついてませんでした。ケブラー製のレース用セイルを何枚も持っていましたが。そこで、購入後、ジブファーラー(25万円)とレイズイ・ジャック(6万円)は新品を買い装着して貰いました。

中古クルーザーを買うときこのような余分な費用が必要なら、購入予算の中に計上しておきます。

もう一つ重要なことは船外機にするかインボードエンジンにするかの問題です。

前回の「中古ヨットの買い方(13)」では現役のかたは仕事が忙しいのでトラブルの少ない船外機のタイプが良いとお薦めしました。

引退後に購入されるなら是非、インボードエンジンのタイプが良いと思います。

前回まで記しましたように色々なトラブルが起きますが時間をかけて修理するのも引退後の楽しみになると思います。それに何よりも出入航や帆の上下の度に重いエンジンを上げ下ろしする必要がなく、体力が弱くなる年齢には非常に助けになります。

それともっと重要なことは、セイリング中に波や風に対する船体の揺れ方が重厚で、自然の力の奥深さが体で実感でき、セイリングの陶酔感が一層味わい深いものになることです。小型のディンギーヨットでは味わえない陶酔感です。

さて「中古ヨットの買い方(12)」ではクルーザーヨットの使い方を3つに分類しました。1、昼間だけ出港し、風でヨットを悠然とセイリングすることを楽しむ。夜はキャビンでパーティをして楽しむ。2、近海で昼間だけのレースへ出場をし、レースで優勝することを楽しみにする。3、外洋での何日間もの長距離航海を楽しむ。

この3種の組み合わせもあります。しかし、1の昼間のセイリングとキャビンでの飲み会を楽しむ人々が圧倒的に多いようです。次回はキャビンでのパーティーについてその企画内容と備品について書く予定です。

フォトアルバム「中古ヨットの見分け方の写真集」ではジブファーラーとメインマスト・トップからブーム端に張ったレイズイ・ジャックの写真も示してありなます。(続く)

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外国体験のいろいろ(35)ー男だけの遊び

2008年03月19日 | 旅行記

◎アメリカの男の遊びースタッグ・パーティー

アメリカでは何でも女性同伴、レディーファーストということをよく聞く。しかし、それはあくまでも建て前だけの話。家族づれのバーベキューも盛んだが、男だけが集まるスタッグ(雄鹿)・パーティーも盛んである。1960年に留学したとき、オハイオ州立大学の金属専攻の学科で男だけのスタッグ・パーティーがあった。酒は飲み放題、男性専門の多少品の悪い議論、そして最後は現金を賭けたポーカーになる。どうも、「賭けポーカー」が目当てのパーテーらしい。

胴元はイタリア出身で、顔がシシリア・マフィアそっくりの学科主任の老教授。見事な手つきでカードを切る。「サー賭けて、賭けて、ただしアメリカ合衆国憲法で決まっている通り、賭け金は1ドル以下のコインに限るよ」。合衆国憲法云々はもちろん冗談である。アメリカ人は憲法が好きで冗談にもよく顔を出す。

6,7人が円卓に付きポーカーが始まる。チャリン、チャリンというコインの音と見物人の掛け声で座が騒がしくなる。胴元の老教授がドスの利いた声を上げる。「アメリカ合衆国憲法により見物人は無言で見ること!」またアメリカ憲法が出てくる。

ポーカーはご存知のようにルールが単純で、あまり高度な手を必要としない。日本の花札のように運任せの部分が多い。それが人気の原因になっている。

近所の男だけ5,6人集まるポーカークラブへ誘われたこともある。自宅を回り持ちで毎週金曜日の夜更けに行う。賭け金は銀行で替えたコインだけ。布袋にズッシリと入れて集合する。奥さんや女子供は奥の部屋で息を潜めて気配も感じさせないようにしている。簡単な男料理とビールだけで、コインのぶつかる音のみが静かな夜に響く。

負けが続き30ドルぐらい取られると、一人、二人と帰っていく。お開きは午前1時と決まっていた。回り持ちなので自分の家でもした。男手で料理を作るルールなので魚や野菜の天麩羅を大皿一杯につけて出した。衣に塩、醤油を入れ味をつけて置く。こうすると「てんつゆ」を付けなくても、手でつまんで食べられる。ビールも飲む合間にポーカーをするので、ナイフやフォークを出してはルール違反になる。

天麩羅は客人の大好評を博した。

アメリカ人の好きなトランプ遊びにはブリッジもある。これは巧妙な手が必要になるので、何回かしたが身に付かなかった。

○男だけのゴルフ

オハイオの大学には大学専用の二つの18ホールのコースが有った。もちろん男女で行ってもよいが、男同士二、三人でよく行った。下手な人は男だけがよい。同伴の女性へ良いところを見せたり、女性のロスト・ボールを探し回ったりする必要が無い。気ままに打って、鳥の声を聞きながら見失ったボールをゆっくり探す。池を越える所では練習と言って何度も打つ。ボールが安いうえに混んでいないので後続チームがいない。

大学のあったコロンバス市はゴルフの神様と言われているジャック・ニコラスの出身地だけあって、大小さまざまのコースが数十ある。設計は千差万別。山と池ばっかりでグリーンがわずかに見える超上級コースから、利根川の河川敷のようにノッペリと平らで格安な初心者コースまで。格安だけに雑草が茂り放題であった。

初心者は電動カートを借りるのがよい。見失ったボールをカートに乗ったまま広範囲に探し回れるからである。カートはグリーン以外どこでも走行自由であった。入場料の安い初心者コースはどこでもそうである。

帰国後、ゴルフコースに行ってみる。おばさんキャデイーが重いバッグを背負って付いてくる。下手なのでよくコースを外す。キャデイーが探し回る。悪いのでコースから出ないように緊張して打つ。ますます外れる。おばさんが探し疲れる。キャデイーとの人間関係を維持するのに疲労困憊(こんぱい)する。1960年代の日本ではキャデイー付きでないと入場出来ない規則であった。それ以来日本ではゴルフをしていない。スポーツはヨット以外なにをしてもダメである。生来の運動神経の悪さのためである。(終わり)


鴎の群れと白鳥

2008年03月18日 | 写真

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早春のセイリングへ行きました。帰りにいつもの所へ寄りました。鴎と白鳥が遊んでいました。白鳥はそろそろシベリアへ帰る季節です。これが最後の写真になるかもと名残を惜しみながら撮りました。

撮影場所:霞ヶ浦湖畔、国民宿舎、水郷のすぐ北の一帯。

撮影日時:3月17日(月)午後2時ころ。


長浜の盆梅を少し

2008年03月17日 | 写真

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恒例の長浜の盆梅展は2月上旬から3月10日までで小生が行った14日には終わっていました。しかし大通寺の中に名残の数盆が何気なく飾ってありました。少し小さい盆梅ですが6枚の写真でご紹介します。盆梅展は3回見ましたが、何故感動したか今回良く理解出来ました。まず、花がついていない時を想像してみると、古木の盆栽として幹、枝ぶり、根張りのバランスが完璧である。それに控え目の花が咲いた時は絶妙である。花が散って若葉になったときを想像しても素晴らしい。まあ、そのような連想を自然に起こさせるので盆梅が感動的なのでしょうか?

恒例の盆梅展の梅の木は丈が6尺位で座敷の天井まであるのもありましたが、ここに示したものは4、5尺で小さいほうと思います。関東地方には盆梅を見たことがありません。

撮影場所:滋賀県、長浜市、大通寺にて

撮影日時:3月14日午前11時ころ。


山林の中に小屋を作る方法(8)

2008年03月16日 | うんちく・小ネタ

@主になる小屋は専門業者へ頼みましょう!

いつもコメントを下さる高山さんから下記のようなご質問を頂きました。今回は具体的な返事を書きます。

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たぶん理工系の学者さんで、体力もある方でいらっしゃると拝察いたします。、
それゆえ、小屋など簡単な構造物は独力で作りえたと存じますが、
知人に聞くと、雨漏り・虫害・黴・掃除など、維持管理が大変だそうです。
小生も方丈記のような雨露を凌ぐ三畳くらいの煉瓦小屋を建てたいのですが、
床の湿気防ぎはどのようにしたらよいでしょうか?
やはり基礎のコンクリ施工は業者さんに頼まれましたか?

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(1)始めに主になる小屋を専門業者へ頼んで作り、その回りにご自分でバーベキュー小屋や風呂場をゆっくりお作りになられることをお勧めします。

30年間、山梨県北杜市の山林の中の小屋へ通って一番困っていることは、物凄い湿気です。小屋のなかの物は黴るし、フトンはジットリよ湿るし、木製品は腐るし、虫の棲み家になるしで大変です。居ないときは窓や戸を締め切りますので冬以外は湿気を避けようもありません。

従って「方丈記のような雨露を凌ぐ三畳くらいの煉瓦小屋」を建てる場合は床下に防水コンクリートを打って、レンガ積みや窓や戸や屋根は全て専門家へ依頼したほうが良いと思います。

小生は清流があるからその場に小屋を建てましたが、湿気が凄く、2年で木製の床が落ちてしまい、防水コンクリートを専門家に打ってもらい、再度、木の床を作ってもらいました。

(2)木材製でなく煉瓦、鉄筋コンクリート製の小屋を作りましょう。

山林の中は木々の四季の変化が面白く、楽しい場所ですが、風が通らず、湿気が高いという欠点があります。長期間使うつもりで、小生は始めから、ブロック鉄筋にして外側はコンクリート壁と白いペンキ仕上げ、内側は白い漆喰壁にしました。アルミサッシの窓に鉄製の頑丈な鎧戸をつけました 。軒と鎧戸などはブルーのペンキでアクセントをつけました。

小屋は予算の都合で6畳と4畳半と2回に分けて、専門業者へ依頼しました。1973年当時、6畳と4畳半で290万円近くかかりました。その後でゆっくり手製の小屋を材木でいろいろ作りました。山林は80坪を80万円で購入しました。経済的な理由で時間をかけて段階的に進めました。

プロの作りと素人の小屋との違いは見かけだけでなく寿命が決定的に違います。素人作りは湿気のため材木部分が腐って倒壊しそうになります。たとえ専門業者が建てた小屋でも、高山さんがご指摘の通り、「雨漏り・虫害・黴・掃除など、維持管理が大変」です。これらの犠牲を払っても、山林の中に小屋を作るためには、それを乗り越える強い動機が必要です。そうしないと作ってはじめの頃はよく泊まりに行きますが、その後はパッタリ行かなくなります。そのうち小屋が草木で埋もれてしまいます。別荘地にはそのような家をよく見かけます。

山林の中に小屋をつくるために一番重要なことは奥さんを当てにせず、自分独りで掃除、修理、夜具の乾燥など全て行う決心をすることと思います。奥さんは一般論では別荘や小屋よりもサービスの良い高級ホテルに泊まりたいと思っています。従ってその事を十分ご理解の上で少しずつ準備されるのが最善と思います。湿気対策のことは続編でお話します。(続く)


馬酔木の花々の写真

2008年03月15日 | 写真

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撮影場所:滋賀県長浜市元浜町32ノ9、大通寺、馬酔木展(2月9日ー4月18日)

      アクセスは、JR長浜駅下車、北国街道を横切り、徒歩約15分、大通寺山門左の

       台所門から入ると庫裏前に広い無料駐車場がある。馬酔木展は500円払う。

撮影日時:3月14日 午前10時から11時の間。


雨の北国街道

2008年03月14日 | 写真

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京都から越前、越後方面へ行く 北国街道は琵琶湖東岸の近江八幡、彦根、長浜を通り余呉の海へと続く。街道の写真を撮ろうと長浜で下車しました。早春の冷たい雨が暗い空から降っていました。北国街道という名前にふさわしい暗くて寒い日でした。写真の一部は街道からそれて大通寺の参道や堀川の風景を撮ったものです。

撮影場所:滋賀県長浜市、北国街道と大通寺参道と参道を横切る堀川。

撮影日時:3月14日午前10時から11時にかけて。


このブログの読者へ深く感謝しています!

2008年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年11月から今日までのアクセス数が10372件になりました。毎日平均96件から102件のアクセス数です。他にフォトアルバムの「中古ヨットの見分けかた」のアクセス数が5850件、「山林の中の小屋」が2261件になりました。

下手な写真と、長々しい拙文にも拘わらず、続けて見て下さる読者の方々へ深い感謝の意をお送り申し上げます。また数多くのお励ましや、感銘深いコメントをお送り下さいました方々へ御礼を申し上げます。お陰でここまで続けてこれました。有難う御座いました。

今後も内容の充実に努力致すつもりですので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。  藤山 杜人


派手な博物館ー所沢航空発祥記念館

2008年03月12日 | 写真

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3月5日に「地味な博物館ーガス博物館」を掲載したとき、次回は派手な博物館として航空博物館をご紹介しますと記しました。今日は写真を撮ってきましたので掲載します。

西武新宿線の所沢駅の隣の駅、「航空公園駅」を下車し改札を出るといきなりYS-11の実物が迎えてくれます。上の写真左端です。その右の写真は格納庫の形をした博物館です。その右の3枚の写真は博物館の前に広がる公園の様子です。大きな飛行機の実物は航空自衛隊が使用していたアメリカ製の輸送機です。ペンキを塗り替えています。

ライト兄弟がエンジン付きの飛行機で初めて空を飛んだのが1903年12月17日。それから8年後の1911年に所沢に日本ではじめての飛行場が陸軍によって作られました。当時、フランスから輸入した布張りの飛行機で徳川大尉が始めて飛行に成功した後、種々の軍用機や民間機の試作、試験飛行の行われてきた飛行場です。日本の航空の発祥の飛行場です。1945年の敗戦後は米軍に接収され、返還後は航空公園として公開されています。公園の一隅に上の写真のような博物館があります。

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第二次大戦後、アメリカは日本の航空機産業を禁止しました。従って上の写真の航空機は基本的にはアメリカ製のもので、陸上自衛隊が保有していた小型機です。一部日本でライセンス生産されたものも有りますが設計とエンジンはアメリカの航空会社によります。

所沢飛行場は陸軍のものだったので展示してある飛行機やヘリコプターは全て陸上自衛隊のものです。歴史の繋がりを感じます。

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上の写真の左から3枚までは陸上自衛隊の使っていたアメリカ製のヘリコプターです。左から4枚目は戦闘機用のジェットエンジンです。そして最後の右端の写真は1911年に徳川大尉が日本で初めて飛んだフランス製飛行機の実物大複製です。

最後に非常に残念な事実を記します。戦後航空産業が禁止された数年間のあと、日本ではアメリカへ対抗できる航空機は製造できなくなりました。機体は別にして、特に航空機用エンジンは我が国の精密技術がいくら進歩でしても作れません。ホンダ、トヨタ、ニッサンの乗用車はアメリカに対抗できる製品を作っています。しかし飛行機は別な技術を必要とします。日本には民間機のエンジン製造の経験がほとんど無く、低価格で絶対安全なエンジンを作るノウハウが皆無なためです。日本には、多数の飛行機を低価格で生産し、実際に使った場合のトラブルを解析した資料の集積がないのです。これは飛行機製造のノウハウとして決定的に重要です。よく日本の技術力は世界一だという話を聞きます。そんな思い上がりはしない方が良いと思います。博物館を見に行ったときは外国の類似の博物館を想像してみましょう。今見ている博物館の長所や短所を考えながら見て歩くのも面白いものです。

所沢航空発祥記念館ではほかに驚異的な大型映像施設があり素晴らしい特別映画を上映していますし、併設のレストランも明るく、いつも家族連れで賑わっています。公園は広大で子供の遊び場もあり近くの小学校の遠足などで子供の声が絶えません。駐車場も広く、2時間までの駐車は無料です。航空記念館へ行くのには中央駐車場でなく、記念館の裏の駐車場が便利です。駐車場は週末は混んでいますが平日ならいつも空いています。

家族連れで暖かい春の日をのんびり過ごすには丁度良い公園と思います。

交通案内、施設案内、開館時間、入場料金などは:

http://tam-web.jsf.or.jp/  をご参照下さい。写真撮影日時:3月12日午前11時ころ。


外国体験のいろいろ(34)心豊かな趣味2例

2008年03月12日 | 旅行記

今回はスケールが大きい、そして心豊かになるような趣味の例を二つご紹介したいと思う。

(1)スウェーデンの古民家を忠実に再現し、そこに住み込む趣味

最近、田舎暮らしが流行のようで雑誌やテレビでよく紹介される。1972年、ストックホルムの大学へ招へいしてくれたエケトロプ教授は田舎暮らしを満喫していた。郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を造って住んでいる。夏の終わりに数日泊めてくれた。

学者らしく、昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家。家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったという。内装はすべて白っぽい北国の板材、柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面で部厚くはない。

建坪50坪ぐらいの大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いている。一番の特徴は一階の右半分を使用した炊事場兼食堂。部屋の真ん中に石造りの大きな竃(かまど)があり、その上には分厚い鉄板が乗せてある。炊事の時にはその鉄板の上に鍋を三、四個置き、薪で煮炊きをする。

深い鉄鍋を逆さに伏せればオーブンにもなる。大きな石の煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にする。寝室には電気が無く、灯りはローソク。昔のスウェーデンの農家との違いは炊事場と食堂に電燈と冷蔵庫があるだけ。もちろんテレビは無い。

木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲む。古い農家再現の苦労話を聞きながら。夜が更ければ寝室へ引き揚げる。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がる。遠くで馬の親子が草を食んでいる。このような白夜の風景が珍しく、いつまでも外を眺めていた。

ここで一休みとして「水ぬるむ井の頭公園」の風景写真を5枚挿入します。

眼をお休め下さい。(撮影日時:3月11日午後2時前後) 

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(2)8頭のサラブレット馬を飼う趣味ー1989年、オハイオ州コロンバス郊外にサラブレットを八頭も飼っている中年女性がいた。大学で計測器の操作をしている技術者である。毎年夏の終わりごろ、職場の教授、学生を家族連れで馬小屋前のバーベキューパーテイーに招待してくれる。子供も大人もおとなしいサラブレットに乗れるので人気がある。馬小屋といっても、八頭の馬の個室が中心の通路に向かい合っていて、通路の先は百坪ぐらいの屋内乗馬スペース。冬でも馬に乗れる。

女性用の乗馬服に身を固めた飼い主が客の座っているテーブルを回りながら談笑する。「8頭とも姿が素晴らしい。馬を飼うとは良い趣味ですね」「とてもお金がかかるのですよ」「よく続きますね」「幸い、いや不幸と言うべきか、5年前の離婚の時、大きな慰謝料を貰ったのです。それで少女時代からの夢であった馬を飼うことにしたのです」

「いつまでも続けるのですか」「学科主任に契約は延長しないと言われたので、来年は馬も手放してコロンバスから出ていきます。仕事も面白かったし、念願の馬も八頭も飼えたし、この土地には楽しい思い出だけです」「お元気で引越しをなさってください」「有難うございます。またいつか会えるでしょう」

それ以来会うことはないが、馬を見ると彼女の輝く顔を思い出す。欧米の趣味にはスケールの大きいものもある。心にゆとりがあり無理が無い。日本の田舎暮らしは農作業に汗を流したり、貧乏暮らしをしたり、何か修行をしている雰囲気のものが多い。それも悪くはないが、悠々たるスケールの大きい趣味も良いと思う。趣味は人生を変えるとも言う。1972年夏、スウェーデンの古い農家に泊まって以来、心豊かな趣味を持ちたいと考えた。山林の中に小屋を作ることになった。(終わり)


日比谷公園の朝

2008年03月11日 | 写真

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何時行っても若い人々が多い日比谷公園。朝8時30分に寄ってみました。人影のない広場に弱い朝日が差し込んで、噴水だけがひとり音を上げていました。小さな虹が見えます。

撮影場所:東京都、千代田区、日比谷公園

撮影日時:3月11日午前8:30時前後

施設や交通案内は; http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/toubuk/hibiya/index_top.html


縄文土器ー釈迦堂遺跡博物館

2008年03月10日 | 写真

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釈迦堂遺跡博物館は中央高速道路建設時に現在の釈迦堂サービスエリア付近の遺跡調査で発掘されたおびただしい数の土偶や巨大な縄文土器を展示している博物館である。その数、大きさ、形の完成度などの考古学上の価値から多くの縄文土器が国指定の重要文化財になっている。

釈迦堂サービスエリアから階段を上ると、上列左端のような博物館がある。2階の常設展示場に入り、ひととうり見て出口へ行くと、上列左から2番目の写真のような時代別の土器の形の変化が説明してある。それを良く見てから、また始めから丁寧に見て行くと、縄文土器の時代による変化がわかり、興味深い。

説明文によると縄文土器の時代は約12000年前から2000年くらい前までの10000年ほど続いたと言われている。我々先祖の日本人は1万年という長い間、縄文土器を使って生活して来た。上列左から3番目からの写真は常設展示室のスナップ写真である。詳しい説明がついて居たが、考古学の専門家でないので詳細は理解できない。

縄文土器の展示はあちこちで見て来たが、釈迦堂博物館では次の二つのことに感動した。

(1)縄文中期の大きな土器の実物がむき出しで多数展示している。(写真の下列左端)

   どこの博物館でも大抵はガラスケースに入っているが、ここでは観客を信用して手の届く低い位置に実物を多数並べてある。手を触れないで下さい、という注意書きはあるが。

(2)写真下列、左から2番目の写真は乳幼児の骨の入っているお棺土器であり、竪穴住居の入り口付近など生活の場の近くに埋めてあったそうである。乳幼児の死亡率が大きかった。子供を失った母の悲しみが込められたお棺土器である。それを身近なところに埋めておく。

撮影場所:中央高速道路、釈迦堂サービスエリアより上った釈迦堂遺跡博物館

撮影日時:2月28日午前10過ぎ。

アクセスや入場料金や開館時間などは:http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shakado


フォトアルバム「山林の中の小屋」へ早春の写真を追加しました。

2008年03月09日 | 写真

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フォトアルバム「山林の中の小屋」へ早春の写真を追加しました。

毎度同じ小屋とその周辺の写真ですが、早春の息吹を感じて下されば幸いです。

2月28日(木)に行き、鬼家さんの山荘にも寄り、谷川の橋や池のほとりを2人で歩きました。庭の陽だまりに福寿草の花が一面に咲いていました。小生の小屋は鬼家さんの山荘の敷地のなかの谷川の上流数百メートルの所にあります。