政治の季節【稗史(はいし)倭人伝】

稗史とは通俗的な歴史書等をいいます。
現在進行形の歴史を低い視点から見つめます。

論壇の凋落…西部邁のこけおどし論文批判

2010-03-29 17:46:02 | 政治
立花隆、森田実というかつて論客ともてはやされた言論人の凋落が甚だしい。
立花隆と森田実・過去の名声と無惨な現在 2/7
立花隆が産経に登場…ボケの進行が加速している 3/12


この二人については、”耄碌(もうろく)”と言うほかないほど知性の減退が進んでいる。
ここに仲間入りをさせたいもう一人の人間がいる。

【正論】評論家・西部邁 国家を歯牙にかけぬ民意の堕落 (産経ニュース 3/16)

「自民党はだらしない」という批判がしきりである。しかし、そう難じる者たちも自民党の未来を本気で心配しているわけではない。自由民主主義の何たるべきかについて、真面目に考えることすらしていないのである。批判する資格のない者たちからかくも激しく叱(しか)られるところをみると、「自民党マイナス政権党はゼロ」ということかもしれない。


西部の非難はまず自民党ではなく、”自由民主主義とは何かということを理解していない人々”に向けられる。
そして彼等を、「自民党を批判する資格のない者」と規定している。

自民党を批判するのに資格がいるとは思わなかった。
彼に言わせれば、共産主義を理解していない者は、共産党を批判する資格はないということになる。

西部の使う用語は難解であり、一見高尚そうに見える。
それだけで我々一般人は彼を敬遠してしまう。

 ≪何を「再生」するのか≫

 自民党の内部から「保守再生」の声が挙がってはいる。だが、「保守」の意味が一向に明らかにされていないのだ。保守とは、自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。戦後の65年間、それら「歴史的なるもの」が破壊にまかされてきた。それを放置してきたのは、ほかならぬ自民党の責任である。


ここで西部は改めて”保守”を定義している。

保守とは、

自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、
平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、
友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する

、という姿勢のことらしい。

友愛に伴う偽善、というところなどはご愛敬というものであるが、それを「歴史的節度」によって防止するとなると何のことだかまるで分からなくなる。
前の二つについては、理解できなくもない。
しかし決して賛成するという意味ではない。
西部の言うところは、国家秩序維持のための歴史規範からの自由の制限であり、歴史的な公正感から平等を制限するということである。

彼の主張の規範は「歴史的なるもの」という点にありそうだ。

わたしは彼等の言を信用していない。
彼等の言う「歴史」を信用していないからである。
彼等の言う「歴史」とは、ほとんどいつも「明治維新」であり、「太平洋戦争」であり「天皇」である。
「日本の歴史」はそれだけで出来上がっているかのような言い方をする。

「戦後の65年間、それら『歴史的なるもの』が破壊にまかされてきた」と西部は嘆くが、彼の言う「歴史的なるもの」の正体は明らかであろう。

 いや、昭和期の自民党は歴史の慣性のようなものをひきずっていた。つまり、アメリカ流の自由(個人)民主主義の実行の仕方において、日本流がかろうじて生き長らえていたのである。しかし、平成期の世代交代につれて、その慣性も消え失せた。安倍元首相のように日本の歴史をよびもどそうとする指導者もいたが、小泉改革にみられたように、アプレゲール(大戦後派)による歴史破壊がほぼ完成したのである。「モダン(近代)」の原義は「モデル(模型)のモード(流行)」であるという趣旨で、平成改革という単純な模型が盛大に流行したわけだ。その騒がしい改革運動に自民党も迎合したのである。

自民党が引きずっていた「歴史の慣性」を「辛うじて生きながらえていた日本流」と呼び、どうやらそれを肯定的に捉えているらしい。
「安倍元首相のように日本の歴史をよびもどそうとする指導者」
「美しい国日本」、「戦後レジームからの脱却」というのは、とりもなおさず「太平洋戦争以前の日本」への回帰を意味していただけではないのか。

「小泉改革にみられたように、アプレゲール(大戦後派)による歴史破壊がほぼ完成したのである」
この部分は具体的にどういう事を指しているのか分からない。
小泉なんて大したことはしていないと思うのだが。
今どき、アプレゲールと言われても、現代政治におけるその位置づけがわたしにはさっぱり理解できない。
単に戦後育ちということか?
「戦後65年間破壊に任されてきた」と言っていることは、アプレゲールによる破壊以前に戦前派による破壊があったということになろう。
しかし「歴史破壊」という言葉そのものもよく分からない。
歴史を破壊することはだれにも出来ないだろう。

 ≪社民主義が氾濫する≫

 アメリカ流の自民主義は自由の過剰としての無秩序を、格差の過剰としての差別を、競合の過剰としての弱肉強食をもたらした。それをみて日本の民主党は、アメリカの民主党と軌を一にし、社会(介入)民主主義を、つまり社民主義を標榜(ひょうぼう)した。平成改革を強く要求したその舌の根も乾かぬうちに、秩序回復、格差是正、友愛喚起を訴えるという二枚舌で、政権を奪取したのである。

 昭和期の自民党も社民的政策を推し進めていたのだが、そこには、無自覚にせよ、国柄保守の態度が何とか維持されていた。派閥や談合といった非公式の場において、少数派の立場にも配慮するという形で、国柄の持つ多面多層の性格を保持せんとしていた。しかし、「改革」がその国柄をついに破砕したのである。その結果、アメリカ主流の自由民主主義とその反主流の社民主義という、ともに歴史感覚の乏しい政治理念のあいだの代理闘争がこの列島で演じられる仕儀となった。


「国柄」と言う言葉は何と読むのだろう。
「クニガラ」?
いずれにしろ「國体」の残りカスを指しているのだろう。

「歴史感覚の乏しい政治理念のあいだの代理闘争」
本人は、歴史感覚十分と考えているようだが、その歴史感覚自体が勘違いである。
もっとも西部の言う歴史感覚とは、国柄=國體意識を指している。
バカバカしい。

 かかる状況に切り込まずに保守再生をいうのはお笑い種でしかない。必要なのは「保守誕生」ではないのか。日本国憲法は社民主義のマニフェストにすぎないこと、自民党の旧綱領は社民主義へのアンチテーゼにとどまっていたこと、平成改革は国柄喪失の自民主義に突っ走っていたこと、そうした事柄を全面的に省察するのが保守誕生ということである。

確かに自民党内の共通した認識は、”反共”しかなかった。
自民党の「保守」概念が、社民主義へのアンチテーゼにとどまっていた、という指摘は正しいのだろう。
ただし「社民主義」というより、自民党の意識では、「社会主義」、「共産主義」を意識していたに過ぎない。
しかし小泉以後の自民党政治を、安倍晋三を除いて、「平成改革」と呼び、「国柄喪失」という言い方には笑ってしまう。
一体西部のいう「国柄」とは何なのだ?
それがまったく理解できない以上、西部の論はわたしには意味を持たない。
「國體」というカビの生えた言葉を単に置き換えたものに過ぎないものなのだろうが。

「保守誕生」というが、その中身は、「社民主義へのアンチテーゼではない國體護持」ということなのだろう。

 あと3年半は、政権から遠く離れた自民党にとって、保守の国民運動を繰り広げるのに絶好の機会ではないのか。多くの国民も、内心ひそかに、自分らの国柄が米中両国に挟み撃ちされている危機的様子に気づいて、保守誕生を待望していると思われる。

「自分らの国柄が米中両国に挟み撃ちされている危機的様子」

これもまた理解しにくい表現である。
挟み撃ちにされている「国柄」とは何を言っているのか分からない。
もしかすると「主権」とか「アイデンティティ」とかという意味で使っていたのか。
アメリカは分かるとしても何でここに中国がでてくるのか?
「国の安全」とか「国の経済」とかなら分かるが、「国柄」とは……。

そんなことを理由に、「多くの国民も、内心ひそかに……保守誕生を待望している」はずはない。

 ≪腐敗していく民衆政治≫

 自民党を怯(おび)えさせ、また民主党を高ぶらせているのは「数の論理」である。「民主主義は多数決だ」(小沢一郎民主党幹事長)という猛々(たけだけ)しい言葉の前で自民党は萎縮(いしゅく)している。しかし、この文句はデモクラシー(民衆政治)の腐敗の明らかな兆候なのだ。


これを「腐敗の兆候」というが、ことさらデモクラシーを民衆政治という言葉に置き換えて、衆愚政治のイメージを塗り重ねているだけではないのか。
デモクラシーも腐敗する。
しかし、地球上でこれまでに腐敗しなかった政治形態があったのか?
中国の理想的な指導者とされる尭・舜でさえその国を永続させることは出来なかった。
腐敗や滅亡は必然なのである。
ひとりデモクラシーに限ったことではない。
しかし、「数の論理」がデモクラシー腐敗の兆候というのは、次に西部自身も言うように、そもそもデモクラシーそのものが内包する矛盾を言っているだけに過ぎない。
とりたてて「腐敗の兆候」などと大声で言うほどのことではない。

 なるほど、民衆政治は「多数参加の下での多数決制」という数の制度である。しかし、これから正が出るか邪が出るかは、「民意」なるものが優等か劣等かによる。たとえば、議会での議論が必要なのは、民意によって選ばれた多数派の政権も、フォリビリティ(可謬性つまり間違いを犯す可能性)を免れえないからだ。またたとえば、ほとんどすべての独裁が民意によって、換言すると民衆政治を民衆自身が否定することによって、生み出されもした。こういうものにすぎぬ民衆政治を民主主義の理念にまで昇格させたのは、自民主義にせよ社民主義にせよ、近代の理念における錯誤だらけの模型であり流行である。

 デモクラティズム(民主主義)は民衆という多数者に「主権」ありとする。主権とは「崇高、絶対、無制限の権利」のことである。ただし、民衆が「国民」であるならば、国家の歴史に秘められている英知のことをさして、主権という修辞を与えることも許されよう。しかし、平成列島人のように国家のことを歯牙(しが)にもかけない単なる人民の民意に主権を見いだすのは、民衆政治の堕落にすぎない。これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう。(にしべ すすむ)


「主権」を「崇高、絶対、無制限の権利」と定義するが、これは西部の定義に過ぎない。
「主権」の定義は百人百様であろう。
わたしは「主権」を”崇高”とも思わないし、絶対とも思わない。
ちなみにわたしは、「主権とは、自分のことを自分で決める権利」という程度に理解している。
そして現実には、崇高とはほど遠い卑近なものであると思っている。
妥協もあるし、相対的なものでもあり、自他の無制限の権利を制限する権利も含まれると思っている。

そして彼はついに民衆に国家の網をかぶせる。
民衆が「国民」であるならば、と卑怯な前提をおいてである。

わたしが不自由に思うのは、日本語にはこの国に住む一人一人の住民を指す適当な言葉がないということである。
「市民革命」と言ったときの「市民」ということばがそれに近いが、わたしたち一人一人の住民を指すには日本語としては未成熟なことばである。
「××村」に住みながら、自らを「市民」とは言いにくい。
民衆や大衆も個々人を集合として捉えている側面がつよい。

そんな中で、「日本国民であるなら」と言われても応対に苦慮してしまう。
「日本という国に住む市民なら」と言われるとまた別の対応ができるというものである。

しかしわたしも国民という言葉はよく使う。
一々、「日本という国に住む市民」などと表現していられないからである。
つくづく不自由を感じている。
それを西部のように正面から、「日本国民なら…」と一括りにされると、「それは違うだろう」と言わなくてはならない。
西部の言う「国民」とわたしの言う「国民」とは明らかに乖離がある。

西部は一応は民衆に主権を認めながら、その主権の上に国家を置く。

「国家の歴史に秘められている英知のことをさして、主権という修辞を与えることも許されよう」

これが多分西部の言う「国柄」の正体なのであろう。
主権とは愚かな民衆の持ち物ではなく、「英知に溢れた国家」の所有物であるらしい。
というよりむしろ、「国柄」が国家を形成すると言うべきなのか。
その「国柄」の凝縮し昇華した現れが安倍晋三らしい。

ついでながら、「国家」と言う言葉もわたしには抵抗感の強い言葉である。
わたしはなるべく「国家」という言葉を使うことは避けている。
わたしは、経済において「家庭」の経済活動を「家計」と呼ぶような意味で、「国」を政治・経済・外交等の面からみたときに「国家」という言葉を使っている。
この場合はまだ代わりに「国」という言葉があるから救われる。
この「国家」という言葉も右翼の大好きな言葉である。
彼等は実によく「国家」という言葉を使う。

「平成列島人のように国家のことを歯牙(しが)にもかけない単なる人民の民意」

西部は、「平成列島人」と、物理的・即物的な言葉に軽蔑と嫌悪を込めてわたしたちを呼ぶ。

西部の理想とする国家では、愚かな民衆は「国柄」という訳の分からないものに主権を譲り渡さなければならないらしい。
それを拒み、主権を主張する民衆は国家の敵であるということになる。

「これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう」

この西部の言葉は、単なるレトリックではなく、心の底からの思いであろう。

しかし保守論壇の論客とか重鎮とか言われる西部邁の「保守論」というのも、なんとも底の浅いものである。
結局、「國體」を「国柄」という言葉に置き換えただけの「国体護持論」に過ぎない。
西部の言う、國體=国柄の中身は必ずしも明らかというわけではないが、いずれにしろわたしたちの上に無条件に存在するそんなものはわたしは拒否する。

全体は自民党に対する叱咤激励のようにも思われるのだが、「これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう」と言われては、自民党もどうしていいか分からないだろう。
「民主主義は国民政治の敵だ」と叫んでいては選挙にならない。

ところでその「国民政治」とは何だろう?
西部は「民衆政治」は否定するが、「国民政治」は肯定する。
多分「国家に組み込まれた国民」による政治という意味なのであろう。

読後の感想を言わせてもらえば、難解な用語と複雑な言い回しを駆使して文章を飾り立てているが、ほとんど具体的な像を結ばない空疎な論文である。

わたしは西部の軽蔑する民衆の一人である。
西部邁の”民衆”に対する冷たい視線が嫌いである




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15 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (らむちゃのパパ)
2010-03-29 19:03:01
西部という人、難解な言葉で民主党を批判しているようですね。しかし、産経は、自民党を開かれた自由に物言える党で、民主党は強権政党だと批判していたかと思うと、今度は、儘ならぬ世論誘導に匙を投げたか民主主義が最大の敵だと論評する人を担ぎ出すとは、要するに民主を批判するなら何でもよしということみたいですな。論評以前ですね。
返信する
難解な解説ありがとうございます。 (ara)
2010-03-29 21:50:26
なるほど、それらしい人の、らしい文章で、面白い・・・・・私は笑えます。
このような考えが日本に蔓延することになると、大変なことです。
つまり、選ばれし者たちが営々と築き上げた日本の歴史を守って、愚民たちを統制して欲しい、という意味を言っていることなのですかね・・・・・それは必ずしも自民党を指すものではなく、
平沼さんや安倍さんを待望する・・・・という事ですね。
衆愚政治と、言いそうで言わないところが、少し大人になったかな?というところでしょうか・・・・
返信する
衆愚にこだわる西部 (SN)
2010-03-29 22:18:37
西部氏の著作や論評は彼が東大を辞めた頃に若干読んで以来目にしてないのでよくわかりませんが、亭主さまのお話しを知るの限りでは大して言ってることが変わってないように思えます。
衆愚社会の危うさをロックやミルの焼き直しのように言いつつ、保守の在り方となると仁や徳など儒教的な文言を漠然と言う。

また私も論壇や政治家が保守という言葉を軽々しく口にして明治以降だけを日本人の伝統とする風潮に辟易しています。

日本の伝統とは明治維新であり、国家神道であり、国体であり、天皇を頂点とする軍国中心国家であったとする風潮だけをひとくくりにして華道や茶道、明治以前の芸術も明治維新以降の思想に時間軸を歪ませながら恰も同類といわんばかりに混在させます。

明治以前の長い歴史に育まれた神仏集合の在り方、庶民の意識、天皇、貴族、武士、商人、町人、職人、芸人、農民、趣味、芸術、他の時間軸と時代の適応性など多様な視点から当時の政治と社会の幸福を検証する仕事を蔑ろにして尚、明治維新から昭和の戦争に至るまでの思想的問題点と現在の無視出来ない地球社会に於ける適応性を検証しない。
多くの戦前からの軍閥官僚が戦後省庁に留まり戦争の総括を米国意向の隠れ属国になることでしなかったばかりか、読売や共同通信のマスコミ、岸や中曾根などの政治家、児玉や笹川などの裏社会とのフィクサー、瀬島や他の財界人、それらの元暗殺部隊右翼や軍閥関係者が米国の手先となりながら戦後利権を独占した。
それらの人々は会を起こし政界、官僚、財界、司法、裏社会との媒介人とのネットワークを強化して自分達の地盤を確たるものにした。
一言で言うならば戦後に彼らは米国の属国化を秘密に受け入れ、責任の総括を回避して自己権益を確立させながら究極の「無責任社会」作り上げたのだと思います(官僚と公務員が責任を取らなくてもよい仕組みや三井環氏の事例でも明らかなように検察と政治勢力との癒着)。

そして西部氏が衆愚社会の危うさを言うのなら、それをメディアとともに作り上げたのが紛れもなく自民党と官僚なのではないのでしょうか。
私は若い時から英国、ドイツ、アメリカで20年近くを過ごしましたが日本程テレビ番組やマスコミがふざけた国をしりません。
英国などはBBC国営で統一して最もそのあたりに気を使っています。
議会制民主主義の理想が国民の意識と役割の向上と調和にあるとするならば、戦後自民党とメディアと官僚の行政の結果となった現在の日本社会は国民に無自覚を促進させ、情報を隠匿し自分達の既存権益だけを死守する、まさに衆愚社会の達成を権益の為に目的とした社会だったのではないでしょうか。
日本人は軍閥団体の厚生省に年金を破壊され軍閥官僚の恩給を極端に優遇させるために身を粉にして、自由を犠牲にして働いてきたのでしょうか。
検察の都合で逮捕したり、不都合でしなかったりする社会正義とやらの為に法律を尊重しているのでしょうか。
検察庁のホームページを覗くと、我々がとか、我が国のとか、主語がまるで検察庁自身であるかのような文言に彼らのおかしな意識の表れを見るように思います。
私は現在の保守は、フランス革命後のジロンドやジャコバンの対立軸のような意義では存在しないし、定義が曖昧ななかでやたらに濫用する今の風潮にうんざりします。
保守という言葉を自己正当化の為のレトリックとしてではなく、潔く「伝統」というべきだと思います。

当然ながら日本の伝統は明治維新以前に長い長い変容と蓄積があります。

現在の意味に於ける保守政党は戦後の無残な欠陥の集合体政党と同意語以上でも以下でもなく、保守じたいにそれ以上の意味は持ち得ません。

保守と伝統を混在したいのならば、保守と伝統の時間軸での検証と功罪の整理は外交だけに於いても明治よりも千数百年は遡るでしょう。
返信する
西部歴史の針を逆回転にすすむ (ももだぬき)
2010-03-30 07:57:53
西部は問題の右翼歴史教科書作成の名前に入っていた気がします。自由主義政治は解体されなければなりません。私は、回れー左の精神で主張していきます。
返信する
Unknown (一民衆)
2010-03-30 11:09:48
私たちはいま歴史的転換点にいます。
このときに、西部某氏らのカビが生えたなにやらいかがわしい論理を(それも上から目線で私たち市井に一生懸命生きているものたちを軽蔑した)いまさらひけらかされても苦笑しか出てこない。
人間の本質を徹底的にを掘り下げる哲学が要求されているのであり。其処からしか次の形は見えてこないだろう。
西部某のもくろむ国家は、大東亜戦争末期の国民(市井の民)を死に追いやってまで守ろうとしたものであり、運良くGHQから戦争犯罪を免除されたものの復権でしかないだろう。そのようなものはもう御免だ。汚い表現だが、反吐がでる。
痛ましくも死に追いやられたものたちにたいする追悼の念をもって。

追伸 西部某は嫌うだろうが、小沢の原点について考えさせられるものがある。
これから思索してみたい。
(参考) http://etc8.blog83.fc2.com/blog-date-20100330.html
返信する
西部は学者なのだろうか (cm)
2010-04-01 03:14:40
私は西部の論文(?)を読んだとき、意味がわからなかった。指摘のような矛盾する
定義が散見され、論理がむちゃくちゃである。他はともかく民主主義を根本否定
しているだけで、西部は完全に駄目だと思った。

私は保守を完全否定する者ではないが、安倍晋三を肯定する人間は駄目だと思う。
安倍晋三は保守以前にファンタジーに生きている。美しい国という主観のみに依存
した国家観を主張した時点で疑問を持たない人間に保守などと語る資格はない。

私は西部については報道2001で知った右翼という知識くらいで彼の政治主張を
よくしっているわけでない。ただ、彼が東大を辞めた理由は知っている。中沢新一
事件である。教授会で中沢の採用が否定された理由は彼の論文への自然科学の不確かな
引用だったと記憶している。そのことに抗議をして西部は東大を辞めたわけだが、
今回の西部の文章を読むと、中沢を支持したのがわかったような気がした。
西部も学者にもかかわらず言葉の定義が無茶苦茶だったのだろう。はたして学者
といっていいものか。
返信する
Unknown (Ping)
2010-04-01 09:51:11
大まかなことを言ってまとめてしまうと、産経や西部は自民から政権が変わる民主主義は許さんというような身勝手な理論を言っているように思えてしまうのですが。
保守以外の勢力が政権の座に就くなどいうことは諸外国では一般的ですし、2つの勢力が相互監視体制でお互いを競い合わせるという図式も普通のはずですが・・・
返信する
コメントをお寄せいただいた皆様へ (亭主)
2010-04-11 12:24:27
ご返事がおくれて申し訳ありません。

ちょっと忙しかったものですから、失礼いたしました。
返信する
らむちゃのパパ様 (亭主)
2010-04-11 12:28:16
>要するに民主を批判するなら何でもよしということみたいですな。

まったくその通りです。
しかし、産経に限ったことでもなさそうですね。
こうもしつこいと、マスコミの害悪も無視できません。


返信する
ara様 (亭主)
2010-04-11 12:32:25
>それは必ずしも自民党を指すものではなく、
平沼さんや安倍さんを待望する・・・・という事ですね。

多分その通りなんでしょう。
こうなると思想というより体質と言うべきでしょうね。

しかし平沼新党の惨状を見ると、西部の言うところも笑ってしまいます。
返信する