たそがれ縁側日記

ボケ老人の独り言

堂々たる地位

2006-11-30 13:18:00 | Weblog
 北朝鮮核問題をめぐる六カ国協議の米朝主席代表者協議が行われたが、再開に向けての米国ヒル国務次官補と北朝鮮金桂冠外務次官との協議は難航しており再開のめどは立っていないようだ。
 テレビに映る北朝鮮金桂冠外務次官は満面に笑みをたたえ、核保有国の立場を誇示するかのように「堂々たる地位で米国と話し合える」と語っている。北朝鮮の核実験に対して国際社会から厳しい非難の声が上がっていることに対して臆するところは全くない。やはりなんだかんだと言っても核は持ってしまえば勝ちだと思っているのだろう。むしろ核保有国としての立場から以前より強い姿勢で協議に臨むに違いない。
 既に北朝鮮の望むように米朝二国間協議は事実上行われている。報道によれば米国は寧辺の核施設の凍結と廃棄に応じれば「米朝外相会談を開く用意がある」と提案しているようだ。米国のこれまでの主張からすれば、北朝鮮が求める二国間協議に条件付ではあるが応じる姿勢を示したもので、米国にとっては一定の譲歩を意味する。これも核保有国となったから譲歩を引き出せたことになる。
 これからの協議は核保有を手駒として何かにつけ強い姿勢で迫って来るに違いない。そして最終的には核を手放すことはないだろう。そして今後は核保有国以外相手にしないのではないか。

自民党造反議員の復党

2006-11-26 20:14:01 | Weblog
 郵政民営化法案に反対し自民党を除名処分となった議員が復党を希望しているが、その扱いに対して賛否両論が出ている。現在のところ自民党幹事長は、復党にあたって郵政民営化法案に反対した過去の行動を総括し、反省文と誓約書を提出するよう求めるなど厳しい条件を示している。これに対し自民党内部でも幹事長の対応が厳し過ぎるなどとの批判が出ている。
 これら議員の復党に対する意見は、大きく三つに分かれるようだ。一つは復党させるべきではないというもの。二つは復党に当たっては筋道をきちんと立てるべきだというもの。三つ目はもっと情を持って対応すべきだというものである。これらの意見も主張する議員個々の事情により分かれているもので、次の衆議院選挙で復党する議員と対立することになるグループ、復党を希望している議員を快く思わないグループ、安易な復党は国民からの支持を失いかねないと心配するグループ、来年の参議院選挙で従来どおりの支援を期待するグループなどなどだ。
 復党を希望する議員達の真意も分かりにくいところがある。自民党に所属していないと自分の志が達成できないからか、それとも政党助成金の問題があるのかなどいろいろ憶測されている。
 政治は常に一つの価値観だけで動くのではなく、多くの価値観の妥協で動くものであるようだ。そのうちに落としどころが見えてくることだろう。

タウンミーティング

2006-11-24 12:34:54 | Weblog
 政府主催の教育改革タウンミーティングで「やらせ質問」があったとその会議のやり方が問題になっている。
 本来タウンミーティングは不特定多数の市民に集まってもらい、参加者からテーマについて自由に意見を述べていただき、そうした声を政策に反映させていくのがその目的だ。しかしこの種の集会は極めて難しい問題が内在している。会場の設定は狭すぎて参加者が入りきれないようでは困るし、そうかといって空席が目立つようでは雰囲気が盛り上がらない。どの程度の参加者があるか予測し難い面がある。会議の進行においても、参加者からの意見が噴出し、議論が逸れたりしてなかなか収拾がつかない状態に落ち込んだり、逆に意見がなかなか出なく司会者が困惑する場合もある。
 そんなことから一般的には予め参加者数を確定し、一定の時間内に終結できるよう議事進行のシナリオを綿密に立て、発言内容がテーマから外れたりして議論が混乱に落ち入らないようにし、発言者の出る気配のないときには口火を切って発言してもらう人を用意しておくなどの事前準備がなされるのが通例のようだ。
 こうしたことから、これらの事前準備はあながち会議を形骸化させるものとは言い切れない面がある。ただテーマについて主催者側に都合のいい内容を発言してもらうよう依頼したり、参加者に多くのサクラを動員したりすることは会議自体を無意味化し許されない。しかし議論が不規則発言を含めて紛糾し、議事進行が困難なになる状況が活発な意見交換だとは決して言えないし、かといって言いっ放し聴きっぱなしで終わるのではこれまた形式化の最たるものだ。タウンミーティングは難しい。

百観音めぐり

2006-11-23 11:37:21 | Weblog
 西国三十三、坂東三十三、秩父三十四と計百観音を回り終えた。お寺も100箇所にもなると、何か特長があり印象に残ったお寺以外一つひとつのお寺を思い出すことはできない。境内に1000年を経た古木が生えていた寺、長い石段や山道をあえぎながら登りようやくたどりついた寺、境内からの眺めが素晴らしい寺などは直ぐに思い出すことができる。しかし多くは田んぼと隣り合わせにあるお寺、こんもりした山の中腹にあるひなびたお寺、町中の商店街のはずれにある寺であり、一つひとつを思い出すことは難しい。でも特徴はないがそのひなびた味わいのある寺はいいものである。
 なんのために観音めぐりをするのか。その理由はいろいろあるようだ。一般的にはいわゆる祈願成就である。病気や生活上の悩み苦しみを癒され、願いごとがかなえられるようお祈りする。しかしそればかりではない。
 お寺めぐりをしている年代層は60歳以上の人がほとんどだ。男女比率では女性の方が多い。目的も観光的意味が大きいようだ。だがお寺のあるところは決して観光地ばかりでない。むしろ何の変哲もない田舎のほうが多い。しかしそんな地方の風景を見る機会を持てるのもお寺めぐりをすればこそである。
 人生も晩年となり、心にたまった垢は積もり積もっている。この垢をきれいに洗い流し、清澄な心を取り戻したい。そんな気持ちでお寺をお参りすると気分がすがすがしくなる。気分がすがすがしくなると体調までよくなるから不思議だ。またお参りのために歩くことも体調を整えることに繋がっているのだろう。病は気からという諺があるが、明るく清澄な心は体内の免疫力を増す効果があるとも言われている。

景気動向不安

2006-11-21 18:15:19 | Weblog
 最近株価の動向が思わしくない。いざなぎ景気を超える長期の景気回復が続いているがいざなぎ景気の時とは中身が違う。経済の成長率は低く、企業の収益は伸びても賃金は横ばいで上がっていない。賃金が上がらないので消費は伸びない。国内需要は拡大せず、企業はもっぱら輸出に依存している。企業の収益は株主配当や役員報酬に手厚く従業員の賃金にはなかなか回ってこない。
 企業としては収益が上がってもそれを賃金に配分することにはためらいがある。人件費が上がると国際価格競争に勝てなくなるからだ。発展途上国の技術水準も飛躍的に高まり、同質の製品を安価に生産するようになって来た。これには日本の優秀な技術力をもってしてもなかなか太刀打ちできない。また賃金は一度上げるとなかなか下げにくい。そんな事情もあって企業は固定化する人件費を抑え、派遣社員やフリーターの割合を高め人件費の流動化を図るようになった。
 こうした傾向は企業全般に広がってきており、賃金に回るお金は横ばいが続いている。政府は世界的にも高いとされている日本企業の法人税を引き下げ、賃金への配分を増そうと考えているようだが、果たして思惑通り賃金に回るか疑問だ。
 国内消費が拡大していかないと景気の先行きは怪しくなる。こうした景気の先行き不安から株価も頭を抑えられることになる。年金資金も株価の上昇で運用益が出ているが、これが再び落ち込むようなことにならないように願いたい。

沖縄県知事選挙結果の示すもの

2006-11-20 13:32:12 | Weblog
 注目された沖縄知事選挙は、自民・公明の推す仲井真弘多氏が、民主・共産・社民の推す糸数慶子氏を破って当選した。今回の沖縄県知事選挙は米軍普天間飛行場の移設問題について県民がどんな判定を下すか注目された。
 仲井真陣営は米軍基地の存在を前提に普天間飛行場の移設をテーマとし、糸数陣営では「沖縄に基地はいらない」を基本に戦った。そして更に注目されたのが、民主党が共産党と共闘した点だ。自民・公明の擁立した候補の当選を阻止するためとはいえ、お互い思想的には相容れない党が一緒に選挙を戦うことが選挙民の理解を得られるかどうか。
 このところ民主党の自民党に対する対決姿勢が目立つが、政権交代を前提とした二大政党を目指す党としては余りにもかたくなな態度に映る。審議拒否などもってのほかで、審議を通じて与党との対立点を国民に分かりやすく訴えることが必要だ。民主主義制度では最終的には多数決で物事を決することになるのは分かりきった話だ。数の横暴だと言ってみたところで仕方がない。もしそうなら国民が次の選挙で黙ってはいないだろう。国民の良識を信じて粘り強く党の主張を訴え続けるのが公党としての使命ではないのか。与党を非難するのはかまわないが、それに終始していては党としての存在価値がなくなる。それとも昔あった批判政党で満足するのであればそれはそれでいいが。
 民主党党首は選挙上手との定評があるので次の参院選が楽しみだが、選挙民は党の真価をよく見ているので、技法だけではなかなか思い通りにはならないのではないか。

使い捨て

2006-11-18 09:44:24 | Weblog
 小泉前首相が、先の衆議院議員選挙で当選したチルドレン達に、議員は使い捨てにされることを覚悟していなければならないとの趣旨の話をしたことが話題となった。
 ペットボトルなどの容器に代表される使い捨て用品は身の回りにいっぱいある。大変便利だが、用がなくなれば邪魔なだけだ。しかしこれは品物について言えることで、対象が人間となると話は別だ。人を使い捨てにすると言えば、何と情け容赦のない薄情なやつだとされ世間から非難を受ける。しかし会社などの組織においては社員を使い捨てにするケースは珍しくない。社員が会社の期待した能力を発揮できなくなればやがては組織から排除されることになる。また逆のこともある。会社が育てた有能な社員が会社から得たノウハウを持ってもっと条件のいい他の会社へ移る場合や、独立して仕事を始めるケースもある。この場合は会社を使い捨てしたことになる。
 最近、郵政民営化に反対して除名となった無所属議員の復党が現実になりつつある中、先の解散で、これら郵政民営化法案に反対した議員の対抗馬に当てられて当選した議員が、次の選挙でも当選できるよう党が守ってくれるかどうかが心配のようだ。あの時は必要があって立候補してもらったが、その後情勢も変化してきたので次回のことについては約束できないとはなかなか言えない。やはり使い捨てにされる側の覚悟如何にかかっているのか。

教育基本法改正案与党単独採決

2006-11-17 11:16:41 | Weblog
 現在の教育基本法が時代にそぐわなくなって来ていることは民主党自身も認め、党として独自の改正案を提案してきているが、愛国心に関する表現などについて議論が噛み合わず、平行線のまま議論はほぼ出尽くした感があった。
 しかし、ここに来て必修科目未履修問題、いじめ問題の発生やタウンミーティングでのやらせ質問などが表面化し、民主党の態度はにわかに厳しくなってきた。それまでも外務大臣の罷免要求を受け入れなければ審議に応じないとも言っていたところをみると民主党としては何としてもこの法案の採決は阻止したいと考えているのだと思われる。民主党はもっぱら対決姿勢を誇示しているとしか思えない。
 この教育基本法改正案は現在の教育の現状からみても極めて常識的な考え方が盛り込まれており、それほど問題となるところはないと思われるが、反対者は愛国心の強制、戦前教育への回帰、教育の中立性を損ない、家庭教育にまで法が干渉するなどの危惧を抱いて反対している。
 我々の世代から見れば、教育委員会の指導も法的裏づけが明確でなく、現場での扱いが恣意的になっており、教師は保護者の顔色を伺い、保護者は教師を責める傾向がある。親の態度を見てその子どもは教師を尊敬どころか見下す場合もある。また家庭では公徳心について子どもにあまりやかましく言わないように見受けられる。
 こうした憂慮すべき事態を打開するためにも、改正案の理念の下に教育界が毅然とした態度で臨まない限り日本の将来が危ぶまれる。

いじめ

2006-11-14 18:01:39 | Weblog
 このところ学校現場での自殺が目立っている。ケースが特異であり、マスコミが大々的に報道するせいもあるが、特にいじめによる子どもの自殺が目を引く。遺書を書き残して自殺した子どもの心境は考えただけでも痛ましい。またこの自殺が連鎖反応を引起したように次々といじめが原因と思われる自殺が出ている。学校側も対応に苦慮していることだろう。
 「いじめ」は定義付けることが難しい。本人が「いじめ」だと思えば態様の如何を問わず「いじめ」だからだ。学校も常々から「いじめ」対策をとってきている。対策という以上はどんなケースを「いじめ」とするかを定めておく必要がある。しかし「いじめ」が限りなく主観的な事柄だとすると「いじめ」が表面に現れず、見えない形で進行することになる。表面に現れたときは既に手遅れだったということになりかねない。だからといって教師が日頃からクラスの生徒に対し個別に「いじめ」の有無を常時尋ねることは、教育上も現実的ではない。
 今回の一連の事件でも、最初、学校側は「いじめ」とは断定しなかった。「いじめ」に対する学校側の見解がおそらく一般の見解とは異なっていたのだろう。しかし、一般的見解を代表するマスコミの追及に「いじめ」と認めざるを得なかったのではないか。
 学校の立場を保持するため、最初は「いじめ」の実態はなかったとしたのではないかと勘ぐるのは学校側に対して少々酷な気がしないでもない。学校に潜在している「いじめ」におびえて教師が萎縮してしまわないかが心配だ。

病気腎移植

2006-11-11 17:31:43 | Weblog
 宇和島徳洲会病院の万波誠医師がかかわった腎移植の事例数が報道の度毎に増えている。腎臓移植を必要とする患者に対し、腎臓を提供するドナーの数は極めて少ない。患者はドナーが現れるのを必死の思いで待っている。しかし、正常な腎臓の提供を待っていたのではいつのことになるか分からない。万波医師が病気の患者から治療のため摘出した腎臓を、腎移植を必要とする患者に移植してきたことが問題となっている。
 テレビで報道されている万波医師の記者会見での発言を聞いていると臓器移植が極めてドライに語られているのに驚く。病気の腎臓を摘出し別の患者に移植することの危険性について質問され、「痛んだところを切除して移植するので心配はない。不都合が生じたら再び取り出せばよい」との趣旨の発言をしていた。まるで機械の部品が痛んだので中古部品と取り替える程度に聞こえる。
 患者からの要望に従って摘出したもであるし、移植を受ける患者に対しても病気の腎臓であることを了解の上行っているので問題はないとも言っている。確かに万波医師から移植を受けた患者の中には移植を受けて体が楽になったと感謝している人もいるようだ。しかし患者に移植の危険性について医学的な判断ができるのだろうか。
 親族間で健康体からの腎臓の提供はよくあるケースだが、今回のような事例が数多くなされているとはなんとも空恐ろしい気分になる。