たそがれ縁側日記

ボケ老人の独り言

辞世の句

2008-12-31 15:58:51 | Weblog
 うらをみせ おもてもみせて 散るもみぢ
良寛辞世の句といわれている。
 天保2年の正月、先年から重い病に伏していた良寛はいよいよ死期の訪れを覚悟した。最後まで師である良寛を看病し、見守った貞心尼は、師が遠からず逝ってしまわれるのだと思うと悲しくなって、
 いきしにの さかいはなれて すむみにも さらぬわかれの あるぞかなしき
と呼びかけた。その返句が冒頭の句である。生き死にを超越した世界に住んでいる身ではあるが避けられない別れがあるのは悲しいことだ、と貞心尼は嘆いている。
 出家した良寛ではあったが、諸国行脚で修業に出向く先々で権力闘争に明け暮れる堕落した教団に嫌気が差し、妻子や弟子も持たず、生まれ故郷の越後の山中に粗末な庵を結んで乞食をして生涯を過ごした。詩歌に優れ、脱俗至純の人柄は多くの人々から親しまれたといわれている。
 良寛は辞世の句のごとく裏も表もありのままに見せてきた生涯であった。時に74歳。多くの人に見とられた最期であった。

辞世のことば(その4)

2008-12-03 11:15:21 | Weblog
   風さそふ花よりもなお我はまた 春の名残をいかにとやせん
 毎年師走に入るとTVなどで忠臣蔵が放映される。元禄15年12月14日主君浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助以下四十七士が吉良義央(上野介)の屋敷に討ち入り、みごとその首級を挙げたお馴染みの忠臣蔵である。
 赤穂の藩主浅野内匠頭は勅使下向の接待役を命じられたが、彼は心の狭い性格から典礼指導の吉良上野介に賄賂を贈らなかった。上野介も強欲であったためこれを恨み、しばしば恥辱を与えたといわれている。内匠頭はこの侮辱に耐えかね、殿中松の廊下で上野介に小刀をもって切りつけたため、即日切腹、領地没収の処分を受けた。有名な松の廊下の刃傷事件である。
 冒頭の歌は切腹の際、辞世の歌として詠まれたものである。切腹したのは3月14日。春爛漫、桜の季節である。風に誘われて散る桜の花も名残惜しいが、それよりもなお春が名残惜しい私はどうしたらいいのか、と切々と詠っている。彼にとっては無念の極みであったことだろう。時に35歳であった。
 ところでこの秋に吉良吉田を訪れた。渥美湾に面した温暖な土地である。人生劇場の作家尾崎士郎や清水次郎長一家の吉良仁吉で有名である。しかしそれ以上にここが吉良上野介の領地で、彼が善政を施し、領民から数百年にわたり慕われてきていることで有名だ。吉良家代々の墓所はいまでも線香と花が絶えない。12月14日の吉良公命日には毎年忌法要が行われ多くの参拝客が訪れる。
 忠臣蔵で四十七士による一連の仇討ちの経緯があまりにも大衆の共感と同情を得ているため、吉良上野介が実際より悪人として描かれてしまっているきらいがある。彼は辞世のことばを残す間もなく討たれてしまった。