つい最近、親しかった人が亡くなった。68歳で仕事からも解放され、これから余生を有意義に過ごしたいとしている矢先のことだった。
体調に異変を感じ、念のためにと思って病院で診察を受けたのが2ヶ月ほど前のことだった。がんを患者本人に告知することは現在ではあまり珍しいことではなくなっているが、彼の場合は診断の結果、末期がんで手術は不可能、余命も厳しいというものであった。医師からの本人や家族に対する告知もありのままの内容で伝えられ、彼にとっては青天の霹靂、まさかとの思いであった様だ。暫くの間は落胆し、茫然自失であったが、やがて現実を冷静に受け止める以外方法がないことをさとったのか、遺される者に対しいろいろ書き記し始めたという。その様子を見るにつけ告知の残酷さ無残さを思い知らされた。
がんは現在の医学では治癒も可能であることから、がんと告知されてもわりと冷静に受け止め、必ず治るとの思いで治療に専念するのが普通である。しかし彼の場合のように、がんは既に手遅れで余命も数か月だと示唆する告知内容はあまりにも残酷であり、その精神的打撃から余命をさらに縮めることになってしまったのではないかとさえ思われる。告知するにしても家族にはともかく、患者本人には和らげた表現で告知されれば結果が多少違ってくるのではないだろうか。
告知からおよそ2ヶ月で彼は逝った。その間、彼の心の動きを知ることはできないが、その思いつめた表情から苦悩がはっきり分かる。観念的には告知は必要だとは思うが、そのむごさを目の当たりにすると告知のあり方に疑問が湧く。
体調に異変を感じ、念のためにと思って病院で診察を受けたのが2ヶ月ほど前のことだった。がんを患者本人に告知することは現在ではあまり珍しいことではなくなっているが、彼の場合は診断の結果、末期がんで手術は不可能、余命も厳しいというものであった。医師からの本人や家族に対する告知もありのままの内容で伝えられ、彼にとっては青天の霹靂、まさかとの思いであった様だ。暫くの間は落胆し、茫然自失であったが、やがて現実を冷静に受け止める以外方法がないことをさとったのか、遺される者に対しいろいろ書き記し始めたという。その様子を見るにつけ告知の残酷さ無残さを思い知らされた。
がんは現在の医学では治癒も可能であることから、がんと告知されてもわりと冷静に受け止め、必ず治るとの思いで治療に専念するのが普通である。しかし彼の場合のように、がんは既に手遅れで余命も数か月だと示唆する告知内容はあまりにも残酷であり、その精神的打撃から余命をさらに縮めることになってしまったのではないかとさえ思われる。告知するにしても家族にはともかく、患者本人には和らげた表現で告知されれば結果が多少違ってくるのではないだろうか。
告知からおよそ2ヶ月で彼は逝った。その間、彼の心の動きを知ることはできないが、その思いつめた表情から苦悩がはっきり分かる。観念的には告知は必要だとは思うが、そのむごさを目の当たりにすると告知のあり方に疑問が湧く。