前に創氏改名を調べたので、今度は「南京事件」を調べてみよう。曰く付の国史大辞典と日本史大事典で。って、予想通りだった。
国史大辞典 第十巻 1989.9 吉川弘文館:
「南京大虐殺」
日本史大事典 第五巻(1993.1.18)平凡社:
「南京虐殺事件」
国史大辞典 第十巻 1989.9 吉川弘文館:
「南京大虐殺」
日中戦争で南京占領に際し日本軍によって中国軍民に加えられた大規模な残虐行為。一九三七年(昭和十二)八月、日中戦争は華北から華中に拡大、日本軍は上海で中国軍の激しい抗戦に直面し、大きな損害を被った。十一月上旬ようやく中国軍を退却させると、中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は、指揮下の上海派遣軍(軍司令官朝香宮鳩彦王中将〉と第一〇軍(軍司令官柳川平助中将)を、与えられていた任務を逸脱して国民政府の首都南京に向かって急進撃させた。上海戦で疲労し、凱旋の期待を裏切られた日本軍兵士は自暴自棄となり、補給がともなわず現地徴発に頼ったこと、中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという郷党意識にとらわれていたことなども加わって、南京への進撃途上ですでに略奪・強姦・虐殺・放火などの非行が常態化する状況となった。十二月十三日、南京占領に際しては、十七日の入城式に備え、徹底的な掃討を行い、投降兵・捕虜を長江沿岸などで大量に処刑し、多数の一般市民をその巻添えにし、略奪・強姦・放火を重ねた。さらに十二月二十二日、佐々木到一少将が城内粛清委員長に就任、中国兵の狩出しと処刑を続け、三八年二月初めに及んだ。犠牲者数について中国側の公式見解は三〇万人とするが、戦闘行為による戦死者を除き、上海から南京への進撃途上から三八年二月初めまでの期間をとれば、十数万人から二〇万人前後に達するとみられる。この事件は「シカゴ・デイリー・ニューズ」(一九三七年十二月十五目付)、「ニューヨーク・タイムズ」(一九三七年十二月十八日付)などによって報道され、国際的非難を浴びたが、日本では厳重な報道管制を受け、日本国民は敗戦後の東京裁判によってようやくその事実を知らされた。同裁判の結果、松井大将が大虐殺の責任者として死刑に処され、南京での裁判で第六師団長であった谷寿夫中将らが処刑された。 江口圭一
参 洞富雄『決定版南京大虐殺』徳間書店、一九八二年。吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店、一九八五年。本多勝一『南京への道』朝日新聞社、一九八七年。
日本史大事典 第五巻(1993.1.18)平凡社:
「南京虐殺事件」
日中戦争中の昭和十二年(一九三七)十二月、中国国民政府の首都南京を攻略する作戦で、日本軍が南京城およびその周辺でおこした虐殺事件。十二年八月に華北での戦火が上海に波及すると、陸軍は松井石根大将の上海派遣軍を派遣したが、中国軍の烈しい抵抗で苦戦に陥った。そこで十一月五日に柳川平助中将の第十軍を杭州湾に上陸させて中国軍の背後を衝き、十一月七日には松井大将を司令官とする中支那方面軍を編成して上海派遣軍と第十軍を統一指揮させた。中支那方面軍は後退する中国軍を急追して南京を包囲し、十二月十三日に南京城を占領した。この戦闘の間に、日本軍は大量に発生した中国軍の捕虜を不法に殺害し、さらに婦女子をふくむ多数の一般民衆に対しても、掠奪、放火、強姦、虐殺などの残虐行為を行なった。この事件は直ちに世界に伝えられて大きな問題となり、極東国際軍事裁判でも訴因の一つとされた。事件の被害者数は、正確には算定てきないが、同裁判では二十万以上、最近の中国側の公表では三十万以上とされている。事件の原因は後備兵を多くふくむ特設師団を主とする日本軍の軍紀が厳正でなかったこと、上海戦以来の中国軍民の烈しい抵抗に対し日本軍の敵愾心がたかまっていたこと、さらには日本人の中に中国人に対する差別意識が強かったことなどにあるが、その上軍中央がこの事変には国際法を適用しないと定め、現地の軍も捕虜をつくらないという方針をとったこと、急速な進軍で補給がつづかず徴発が掠奪につながったことなど、軍上層部の責任に帰せられる部分も存在している。日本国内には、事件が虚構だとか、誇張されすぎているという主張もあるが、そのことはいっそう被害者である中国側の批判を強めている。洞富雄氏が基本文献...。 それにしても、これは厄介である。誰がこの項を書き換えるのか。それは歴史学界でしょ。
参考文献 洞高雄『南京大虐殺の証明』、同『南京大虐殺決定版』 (藤原 彰)