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世界の覚書

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解任や停学はやり過ぎ

2008年07月02日 | 文化財・史跡
イタリア人もびっくり。

毎日:落書き:伊紙「あり得ない」 日本の厳罰処分に
イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。同紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過ぎ」と論評した。一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。
> 解任や停学はやり過ぎ

空気読めという話なのだろうが、実は落書きも、現場の空気を読んだからの出来事なのだ。某ブログによれば、大聖堂の下では観光客向けにマジックを売っているという(他に情報源がないが)。だからこそ、最上階の現場の観光客がマジックを持っていたのだ。在り合わせではない。それに現場は落書きというか、記念の書き込みだらけ。きれいな壁に落書きしたわけではないのだ。

落書きを撮影するのも、好奇心に基づく観光客の行為である、というのもポイント。落書きをするのと、落書きを撮影して日本でちくる行為は、違うようで、心理的には紙一重である。少なくとも、現場の状況を客観的に分析して伝えるという努力をしなかった日本のメディアの雰囲気は、なかなか悪質なものがあると思う。「世界遺産に落書き」というふりは、巧妙だ。

世界遺産への落書きを放置していたのは、イタリアの責任が一番大きいのだが、そこは考え方である。観光客が来ることは歓迎であり、大聖堂の立ち入り禁止措置を取る気もないはずだ。イタリア人は「落書きが合法と思っている」という感覚も前提にある。

謝罪されても、イタリアの方では目が点というのが本音ではないか。自殺者が出ない内に、日本人(特にメディア)は騒ぎすぎを反省すべきである。

教会からは、「謝罪してもらえれば、修復の費用負担は不要」という事で、けりがついている。

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