映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

5000日目の雑感

2022-02-10 19:15:32 | Weblog
ブログを開始して5000日目となった。日が経つのは早い。もともと何気なくクリックしただけでスタートしたブログだ。映画とライフデザインで、日常をもう少し語ろうとしていた。でも、周囲にはブログをやっていることは13 年以上言っていない。妻と娘は知っているが読んでいない。あくまで備忘録にすぎない。


映画鑑賞を通して、日常の出来事やいろんな事象に触れていければ良いと思っている。コロナになってもエンドレスに映画が製作されている。選択しながらより優れた作品を観るようにしている。本と映画それぞれ年間200本が基本的な目標だ。もともとDVDレンタルも併用しながらの200本であった。でも、近くのTSUTAYAはなんと閉店だ。これからTカードの更新はどうするんだろう。ネットフリックスやprimeでは代替えにはならない。


新作映画を観るときは、日経新聞の映画欄と文春のシネマチャートが主な情報源だ。ここで星4つ以上のいい評価だったものはハズレもあるが、80%以上は一定以上の水準を保っていることが多い。評者により評価が大きく分かれる時がある。逆にそれも注目だ。おもしろい映画である場合も多い。この考えを基本に映画館に観にいく作品を選択する。ここで取り上げられていなくても、この監督作品だけは観にいくという人が国内外を問わずいる。スケジュールは最優先で空ける。愚作駄作にはこだわらないというのは押井守先輩から学んだ。

旧作は昭和20年代から50年代半ばまでの日本映画を名画座でチェックする。自分が幼少時の日本ってすごく興味があるし、薄く残っている記憶を蘇らせるのは楽しい。新幹線が通り、東京オリンピックがあった1964年以前の日本には雑然とした魅力がある。自分のベスト3のうちの1つ黒澤明の「天国と地獄」がすばらしいのも、その転換期直前の映画だからだ。旧こだま号が走っていた日本の原風景を知るには映画を観るのがいちばんだ。現在からみると、何から何まで古くさい。でもそれがいいのだ。


図書館のネット利用方法のコツを覚えて以前よりも読書量が増えた。以前はネット検索してどこかの図書館にあると分かると一冊のために車に乗ってわざわざ借りに行っていた。今はネットで予約して近くの図書館に取り寄せる。

本は手に取ってみないとわからないものだ。そのための下調べは神保町の東京堂書店や新宿のブックファーストが主戦場だ。本屋で立ち読みして気になる本も、図書館にあるかをまずチェックする。意外にあるもんだ。新刊から半年も経つと超人気作を除いて予約ゼロ状態だ。図書館の予約が異常に多かったり、なかったりするとamazon中古本の値を確認して購入する。購入するのは新刊中心になる。

借りたら、付箋をつけながら読書スピードを上げて読む。もう自分に残された時間は短い。期間短縮が鉄則だ。読み終わった後で、付箋のついたページだけiPadで写真を撮る。以前はノートに書き写していた。図書館で借りる場合、返却時期を気にすると、良いことはない。雑にでも一通り読んで期限前に写す。


好きな本の抜き書きや本の中身を写真で撮ったものは口述でgoogleドキュメントに記録する。そうすれば、iPadとiPhoneの両方でいつでも編集ができる。内蔵マイクに話しかけるとわずかな推敲であっさり文面になってくれるのも助かる。

昭和のビジネス書では、口述筆記はこうなってほしいという世界だった。物理の竹内均先生の本でも秘書を使って口述するのが精一杯だ。今ではそれが身近に実現する。

学術本の本のように内容が濃い場合は、一太郎padを使って写真から文章を起こすことができる。これも便利だ。でも、口述か一太郎padのどちらがいいかは場合による。そして、そのドキュメントも記憶から薄れてしまったら困る。付箋でピックアップした部分を20個の単語+αにするのだ。それ自体はソラで言えるように、繰り返し週数回練習する。自分にとってのバイブルのようなものだ。頭の体操にもなる。

映画を観るのは約2時間拘束されるので、それは別として、本を読むのも、文章を書くのも、仕事の作業をするのも基本単位は18分だ。携帯のタイマーで時間をセットする。終わったら別のことをやる。そうやって集中した18分が1日何回とれるかが勝負だ。多くの仕事は作業の集まりだ。しかも分解できる。

若いころ何でこういうことに気づかなかったのだろう。もっと早く気づいていればということがたくさんありすぎる。

5000日目になった今こう考えている。この先はわからない。この一年で学校の同期など周囲にはリタイアする人も少し増えてきた。逆に最近とんでもない大出世をした仲間もいる。メールが飛びまくった。まだ自分は恵まれている方で、収入はある。若い人はあくせくしているが、長い間働いていていろんなことがわかってきた。

12月に決めた食事のアポは2月3日までこなした。それでいったん休憩に入ることにした。こんな美食にありつけていいのかと思うものが食べられるのもあとだれだけか。仕事もいつまでやるのか?あと5000日生きた時にどう考えるのか?未知の世界を進んでいく。
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映画「クレッシェンド 音楽の架け橋」

2022-02-10 05:47:12 | 映画(アジア)
映画「クレッシェンド 音楽の架け橋」を映画館で観てきました。


クレッシェンドは10代の頃からイスラエルを絡めた中東情勢に関心を持っており、観てみたいと思っていた作品である。アラブ対ユダヤという根深い対立状態にある両人種からドイツ人指揮者が音楽好きを集めて合同でコンサートを開こうとする話である。

予想ほどにはいい映画ではないが、後半盛り上がる。
一方的なユダヤとアラブの対立の構図に、恋物語を混ぜた設定は悪くはないが、あまりにユダヤ人女性がおかしな行動をとるのに呆れてしまったことで点数が急降下してしまった。ちょっと不自然すぎる。音楽に関する内容は悪くはない。曲の選択もよく、最後に向けての盛り上がりはまさにクレッシェンドといえる。


世界的指揮者のスポルク(ペーター・シモニシェック)は、紛争中のパレスチナとイスラエルから若者たちを集めてオーケストラを編成しコンサートを開くという企画を引き受ける。ユダヤ人、アラブ人両方の若者が家族の反対や軍の検問を乗り越えオーディションに参加した。スポルクが人種にこだわらずに演奏する姿を隠して選抜し、20名あまりの精鋭メンバーが選ばれる。しかし、お互いの憎しみは強く予想通り激しくぶつかり合ってしまうのだ。そこでスポルクは彼らをスイス南チロルでの合宿に連れ出し、コンサートのための準備を始めるのであるが。。。


いきなり検問所が出てきて、イスラエルの近代的都市テルアビブに行くために、アラブ人の演奏家たちがイチャモンつけられるシーンが出てくる。陸でつながっていても、許可書がなければ入れない。しかも、オーディションに参加することを家中が賛成しているわけではない。

そんなエピソードを並べ立てて、ユダヤとアラブの対立を浮き彫りにする。それでも何とか融合を目指そうとするところに映画の意義があるわけではあるが。

⒈中学生で習ったユダヤとアラブの対立
自分が中学生の頃、社会科の先生がユダヤとアラブの対立に関して語ってくれたことがあった。ユダヤ人が突然訪ねてきて、ここは自分たちが2000年前に住んでいたところなので戻してくれと言って、アラブの人たちを追い出した。そのためにアラブ人たちはテントで流浪のキャンプ生活を送っていると。

ユダヤ人がこの地に来たことを、同じようにこの映画でもアラブ系の人たちは言っている。

みんなの家に突然大昔に住んでいた人が訪ねてきて、昔住んでいたのでどいてくださいといったらどうする?え!そうなんだ。今から50年ほど前の講義だけど、鮮明に覚えている。当時、一世を風靡したマクドナルド社長藤田田が「ユダヤ人の商法」という本を書いてベストセラーになる。商売上手のユダヤ人というのは中学生の自分にはすごい存在に見えた。

自分の高校では地理を高校1年で学んだ。毎週の授業は課題を基にした生徒の発表であった。中学時代に社会科の先生から聞いた言葉が気になり、自分はイスラエルにおけるシオニズムの研究を課題に選んだ。紀元前からスタートして、第一次大戦時のシオニズムやイスラエル建国、中東戦争を題材に選んだ。その流れはその後も続いて、中東情勢に関する本を読むようになった。ユダヤ人陰謀説はどれもこれも気になって仕方なかった。

大学でイスラム史の先生が娘の指導教授だったのも何かの縁かもしれない。

⒉ドイツ人指揮者
名高い指揮者がユダヤ人とアラブ人の混合オーケストラの企画にのった。ドイツ人指揮者スポルクである。スポルクの父親はナチスの強制収容所で医師をやっていたという。まさしく戦犯の1人だ。イタリア経由で南米に逃亡を企て、移動途中に射殺された。まさに南米に逃亡してしばらく経って捕まったアイヒマンの話も出てくる。アイヒマン裁判は「ハンナアーレント」でも取り上げられた。古くはアルフレッドヒッチコックの映画「汚名」でもナチスの残党の話が出てくる。

アラブ対ユダヤの構図もあるけど、ナチス対ユダヤの構図もある。指揮者自体も何かの標的になっている。怖い世界があるのだ。


⒊ラベルのボレロ(ネタバレ注意)
オーケストラでのアラブとユダヤの争いは絶えない。それでも、ドイツ人指揮者の指導で、何とかコンサート開催にこぎ着けそうになってくる。リハーサルでは、ヴィヴァルディ「四季」の冬が演奏される。2020年の傑作「燃ゆる女の肖像」のラストで「四季」の冬が流れた時、思わず背筋に電流が流れた。感動的なシーンだった。それを思い出したせいか、この映画でも同じようにゾクゾクした。

この延長でいいコンサートが見れるのかと思ったら、思いがけない展開となる。さみしいなあと思ったときに登場するのがラベルのボレロだ。この曲は個別のいくつかの楽器で次々と主旋律を流して、それがいくつか続いた後徐々に他の楽器が加わるまさしくクレッシェンドの展開となる。映画にも時間制限もあるので簡略化するが、ここでこの曲を選択したのは大正解である。さすがに盛り上げるいいシーンだった。
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