オシムへの反抗

2006-09-08 | サッカー日本代表

「谷間の世代は今でも谷間」
セル爺が吐き捨てるように言う。
常に才能溢れる前の世代と比べられ、”谷間”と称されてきた。
確かに試合を見ても一人一人のプレーの質はそれほど高いようには思えない。
でも個の才能を超えるチーム力がサッカーには存在すると思う。
オシムさんはそれを求めてるんじゃないのかな・・・

イエメン戦のまるでジーコ時代のような勝利を受けて、
過酷なアウェーでのも勝利を評価する方(ランキングへ)いれば、
前回対戦、サウジ戦と変わらない稚拙なゲーム運びとアイディアの乏しさに
得るものは何もなかったと批判する方(ランキングへ)もいる。

正直つまらない内容だったと思う。
まるで街中のようにスタンドを歩き回る人々ばかりが気になってしまう。
もちろん大熊コーチの(ゴニョゴニョ)・・・
「私のチームの方が、以前のチームよりチャンスの数も多い」という
監督のどこか悲しい発言にかえって、内容の乏しさを強調されたように感じる。
ただしつまらないサッカーが駄目なものとは限らない。
例えつまらなくとも過酷な環境を考慮した上で、
勝利に拘る試合をすることが結果的につまらないものになったとしても、
結果が出たのだから、それは十分に評価に値する試合だったと言える。

ただ一つ気になるのは、それが監督の求めていたものとは違うということ。
散々噛み合わないパス交換を繰り返した挙句、結局はパワープレーで得点。
様々な悪条件があったものの、それはアジアを戦う中では
当然覚悟しなければならないものであるし、
決して経験がないメンバーではないのだから十分判っていたはず。
ましてや相手は最近戦った事のあるチームだ。
ピッチが凸凹であるなら、繋がるパスも繋がらないことがある。
シンプルにクロスを上げるだとか、
ダイナミックなサイドチェンジで相手の守備を揺さぶってみるだとか、
悪条件なら悪条件なりにそれを見越したプレーをする
臨機応変さにだいぶ欠けているように感じる。
それはファンタジックなイマジネーションがなければ出来ない判断ではない。
ピッチに立った選手達の誰もが容易に判断できた事じゃないだろうか。

そこで考えるのが、サウジ戦後の雑感でも書いたけど、
選手達は本当にオシムサッカーに従順なのだということ。
繋げと言われれば、とにかく繋ごうとする。
それが例え試合展開の中で得策でないとしても。
先の文章とは矛盾するかもしれないが、パワープレーで得点した事は
あの場面では最良のプレーだったと思う。
結果、監督の理想とする得点とは違うのかもしれないが、勝利する事が出来た。

ジーコの時代にジーコの言う「自由」という意味を選手達は
間違った解釈をしていた、と私は思っている。
だからこそチームが最後まで一つになることが出来なかった。
オシムさんに監督がかわり、「走る」「考える」「繋ぐ」そんな言葉が
オシムサッカーの象徴として挙げられる。
現チームもジーコ時代のように選手達がそれらの言葉に
とらわれ過ぎてはいないかと感じる事がある。
それに縛られる事で選手達は自分達で考えてプレーすること(臨機応変さ)
を忘れてしまっているのではないだろうか。
オシムはジーコ時代の全てを否定していると表現される部分もあるけど、
「自分達で考える」というは全く変わらないと思うんだよね。
それに関しては本筋が伝わりにくいオシムの独特の言葉だったり、
ジーコサッカーへの対抗を強調しすぎるオシムの性格だったり、
我々も含め勝手な解釈を展開する周囲も悪いような気もする。
選手達は戸惑っているんだろうか・・・。

 「ピッチの外で見ていて、オシムさんはパスを回せと言っているけど、
 自分はもっとアタッキングエリアで仕掛けていくことが必要だと思った。
 もっと個の力が必要。それがあればもっとパス回しも生きると思う。」

これは初招集された最年少、梅崎選手の試合後のコメント。
よく試合を見ていたからこそのコメントだと思う。
ある意味ではオシムサッカーに”反抗”しているかのような言葉であるが、
勝利するためには何が足りないのか、しっかりと自分の目で見て、
分析して、考えを持ってプレーしているという表れでもある。
これこそがオシムが望んでいる考えて走るということなんじゃなかろうか。

チームの為に何が必要か、そのためにプレーすることが、
例えオシムに反抗する事であっても、それがチームの為のものならば、
オシムさんは簡単に切り捨てたりしなでしょ?
そんなことする糞監督ではないと・・・思う。
もしかしたらそんな選手達の意欲を待っているのかもしれないし。
まだまだこれから。どうしても注目は監督にいってしまうようだけど、
やはりプレーするのは選手達自身。選手達が頑張らなきゃね。
サッカー最新情報を見るなら
こちらから(ランキングへ)