わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

人はみな霊人として

2011-01-21 11:15:50 | 癒し
本心というのは
私たちの
このいのちを
かがやかせている
神の
愛と
ゆるしと
智慧と
光明燦然たる
世界です
私たちの
ふるさとです

このふるさとの道を
歩いてゆくと
宇宙の
大調和
神々の
愛のひびき
宇宙神の
みこころの奥へと
たどりつきます

我々が神の
分生命(わけいのち)であるということ
一人びとりが
神のいのちのわかれ
光の末である
ということに
思いを至らせるとき
神様ありがとうございます
本心さんありがとうございます
世界人類が平和でありますように
という
祈り言に
なってゆくのであります

世界平和の祈りは
神の人類をおもう
愛念の結集であり
平和をもたらさんとされる
神の
ゆるしの祈(の)り言であります

何の
とらわれも
こだわりも
なく
ひとつの
ひっかかりも
ない
澄みにすんだところから
人類全体を
光の子として
神のいとし児として
とらえなおしを
なさろうとされる
神の
約束の
祈り言であります
また
私ども
一人びとりの
神に対する感謝のひびきを
こもらせた
祈りであります

光の祈りである
この祈りをとなえるとき
人は
たちまちに
救世の大光明に
とらえられ
ふるさとである
本心
神の愛の
み心から
放射される
愛念に
いだかれてゆくのであります

祈りというものが
すべての
はじまりなのです
祈って祈って祈りぬいている生命(いのち)
それが人間の本来のすがたなのです

余分なものを
脱いで脱いで
消えてゆく姿と観じて
生きてゆくとき
人は一たん
まはだかにされてしまいます
それは
世間からみれば
お金がなくなったとか
地位を失ったとか
失笑をかったり
色々なことが
起こってくるのですけれど
人間の本心本体
光明心というものは
ゆらがない
ゆらぐことのない
光のいのちを
我々は
神から
いただいているのです
これがあって
はじめて
我々は
生きてゆくことが
できるのであります

この世の中は
すべて
おもいの
あらわれの世界であります
ですから
いいことも
わるいことも
苦しいことも
辛いことも
すべてを消えてゆく姿なんだと
おもって
世界人類が平和でありますようにという
世界平和の祈りのなかに
投げ込んでしまうと
あとは
守護の神霊が
みんな
やってくれるんです

だから
何にも
心配する必要はない
ただ
祈って
その
持ち場
持ち場で
一生懸命
努力をするということが
大事なんです

そうすると
みんな
光ってきます
みんな
スッキリと神様のいのちに
つながってゆくのです

それには
すなお
ということが
一番
徹底して
神にすなおになる
あせらず
力ませず
世界平和の祈りは
そこまでみなさんを
連れてゆく祈りです

守護の神霊の加護
そのたゆまざる
休息のない
愛念というものが
なければ
私たちは
生きてはゆけません

そうして
天命というものは
これら神霊をとおしての
ふるさとである
神への感謝と
世界人類の平和を
祈る祈りのなかから
かがやかに
あらわれ出てくるものなのです

個々の天命の完うと同時に
世界人類
宇宙人類との
ともなる
いのちを
祈り
宇宙神の
愛の気をうけて
美と真と平和という
この宇宙を保つ
天命が成りますようにという
ひびきが
込められているのです


私は
はっきりと
世界平和の祈りのもつ
果てしのない
大光明のかがやきを
述べてゆこうとおもいます

この神の愛
大光明は
我々を
遠くはなれてはいない
我々一人びとりの
身内に
それは
同時に分けられ
鳴りひびいて
いるのです
神のすえである
我々の
いのちの
なかに
それは
厳然と
存在し
我々を
生かして
いるのであります

この真理を
本来霊である
人間は
知っていたのですが
肉体をまとううちに
ふるさとの
記憶が
うすれて
しまったのです

我々が
天命を完うするというのは
我々自身の天命であると同時に
宇宙神の目ざしておられる
全宇宙の完全平和を目ざすという
宇宙神御自身の
みこころが
わけられ
盛られているのです

世界平和の祈りは
この真理へと
我々を
つなぎ
むすぶ
祈りなのです

あなた方が
この祈り言を
祈るとき
あなた方自身の
本来のいのちの
かがやきが
祈りの光明とともに
照り渡ってゆくので
あります

本当に
朗らかな
いのちが
そこに
あらわれ
この地上は
平和な世界へと
展開してゆき
やがて
死なざるままに
人はみな
霊人として
宇宙の
兄弟たちと
交わり
神の
みこころにしたがって
まかせて生きてゆく
ことに
なるのであります

消えてゆく姿と世界平和の祈りの
光明
この祈りに集われた
霊人たちの
智慧は
私どもを
ゆたかに
朗らかに
導かずには
いないのであります

ともに
世界平和の祈りを
祈って
参りましょう

 平成元年12月26日

いのり

2011-01-21 10:05:36 | 癒し

 祈りというのはどういうものかというのは、考えれば考える程

わからなくなる。まじめな信者さんである程そういう質問を

よく受けます。

 そういう人ほど良心的で考え込んでしまって、自分が

出来ていないのに人に薦める訳にはいかないとか、共に祈るような

資格は私にはないんじゃないかとか。

 そうなるとちょっとノイローゼに近い位に悩み込んでしまっている。


 祈りというものは、神様と私の対話なのです。と同時に、世界人類と

私の祈りでもあります。この場合の世界人類というのは、地球の

世界人類だけではなくて、宇宙全体の宇宙の星の兄弟たちとの

一人一人との、その交信も含みますね。

 ですから、真に広い幅になる訳です。そこまで考えていくと、

私共の世界人類が平和でありますようにという祈りというのは、

非常に大きいし深い。そして、自分が出来るか出来ないかということ

ではなくて、もう向こうの方で抱きとってもらってる訳なんですね。

 ですから、何も考えずに祈るというのが一番いい訳なのです。四の五の

言ってる間は理屈なんです。祈りというのは理屈を超えたものなんです。


 そんなこと言ったって祈れませんという時は、祈れなくていいのです。

 集会に行きたくないのに無理に集会に行ったり、何か行事があるから

絶対に人数がいるからといって集めたって、それはどうにも

ならないんです。その人の気持ちがどうにも向かないという時に、

無理に薦めたってそれは萎びるだけなんです。

 本体と肉体は違う訳だから、本体は行きたければ、さっさと霊体が

行っちゃってる訳です。

 自分の肉体がどうであれ、霊体は行って統一会に出たりなど

している訳ですから、そこまで我々の肉体人間が神経質になることは

ないんです。


 ですから、真面目な人ほど色々色々考えるけれども、しかし、

そうじゃなくて、もう一回、子供みたいに無邪気になって、

世界人類が平和でありますようにという風に祈る。祈って任せる。

 そこからでないと我々の道というのは開いていかない。

 そういう風に思います。

   昭和63年6月13日

                  五井 昌久

宝について

2011-01-21 09:58:32 | 癒し
 私のところへ色んな人が来ます。まあこういう言い方をすると

誤解する人もあるかもしれないけれども、地位のある人も来るし、

お金を持ってる人も来るし、社会的に名誉をもってる人にも会った

ことはあるし、かと思うと、その日をどうやってお米代を出そうか

といって悩んでる悲しんでる人も来ましたし、未だに色んな人の姿を

こちらから見ておりますが、つくづく思う事は、余分なものを

持たないことの清しさ。


 ところが、人間というのは余分なものを持ちたくなる。で又、

持ちたいと想う時、持たされている時というのは、余分なものだとは

思わないですね。

 例えば、会社に勤めていて、月給が上がっていく。上がっていく

ことはそれで生活が楽になってくる事だから、それは安心立命の元

なんで、良かったですね、としか言い様がない。

 普通ならばそうなんだけれども、段々段々10万円で生活して

いたものが20万になって、20万円で生活していたんが30万に

なっていくと、これは、30万の生活に慣れると、今度逆に、

20万にする10万にするというのは非常に難しいんですね。


 今までの生活の習慣といいますか、これだけの経済でこれだけの事を

やっていくというのが、もう多ければ多いことに慣れているから、

それを減らしてやっていくというのは、何か自分の立場とか自尊心とか、

今までの経歴とかいうものも全部否定されるような気になる。

 だから、なかなか諦めていくということは難しい。経済一つとっても、

人間というのはなかなか不自由に出来ているんです。


 たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲とあってですね。悪い欲

というととらわれているみたいだけれども。

 何が何でもお金が欲しい地位が欲しい名誉が欲しいというので、

ガリガリ亡者の様に、そういう気持ちでものを求めていって

手にしている人というのを見ると、中身がカラッポと申しますか、

外見だけ色々あるんだけれども、中身が非常に空虚な感じがする。

 物質的に色々持っていても何か非常に虚しい。何によってこの人の

心は救われていくんだろうかと気になる。


 そういう事をつくづく考えてみると、人間がどういう時に一番自由に

なるんだろうか、どういう時に朗らかになるんだろうかということに

なると、自分を忘れている時ですね。

 自分が何処に属していて、どういう給料をもらっていて、あるいは

今どういう立場で、どういう顔して生きていくか、生きていかなきゃ

いけないか、そういう色んな煩いを忘れていって、そして、本当に

赤児の様な本当の自分の顔を出してる、その一瞬の時に人間というのは

救われていく訳ですね。


 それは別に、宗教を持ってるもってないに関わりなくそうなんです。

 私共はそういう我を忘れた本来の自分の素顔、ふっと出す

その素顔が、5分でも10分でも15分でも長続きをして、自分も人も

良くなっていくように祈っていく。

 光が満ちてく様に祈っていく、想いや願いではなく、そこへ祈りが

加わって、ついには祈りによって、自分も人も皆が救われていくと

いいますかね、そういう大きな愛情に包まれる。そこを目指す

訳なんですね。


 だから、実は、そういう風にして空になって無になって、そこも

突き抜けていきますと、本当に人間というのは、先程から

言ってるように、自由になって解き放たれる。その時に、人間

というのは何も持っていないようだけれども、実は身も心も

突き抜けて、一番の宝物を持ってることになる、それは何かというと、

何ものにも煩わされない、何ものにも強制されない自分自身というのが

そこへ素直に出せる。その時に人間というのは一番安心するんです。


 それは私の方から言いますと、神様の愛というものを知って、神様の

自分が子供であるということを知って、神様が全部知って下すってる

そのふるさとへ帰って、ふっと安らぐ時に、人間というのは一番安心

するんです。そいういう風に人間というのは出来てるもんなんです。




 神様というのは我々のふるさとだから、別に宗教でなくても、芸術

であっても何であってもとに角人間というのは、そのふるさとを

目指して歩いている旅人みたいなものですから、そこへ我々は、どんな

形であっても、その人達を連れて行きたいと思う訳です。


 自分の中にある宝というものを持ち腐れにしないで、その宝を

確認して祈ってやっていくと、益々自分自身も張り切ることが出来るし、

輝くことが出来るし、まわりも喜ぶことが出来る。


 これはもう、自分も他人も両方の成道なんでしてね。道が成っていく

のであります。ですから、そこをすべての宗教家は目指しましたし、

私自身もそれを目指して今までやって来ている訳だし、これからも

やっていく訳であります。

 その為に、世界人類が平和でありますようにという祈りは、誠に絶大な

力を発揮する訳でありまして、唯無心にこの祈りを唱えて、そうして

神様に任せていく。その時に本当に自分自身が自分自身として生きる。

 その喜びの瞬間というものを取り戻すことが出来る。そうして、

それがずっと続いていくと、やがて道がついていって、自分も

知らない間に、あーこんな所まで来てしまったかというような所まで、

神様というのは連れていって下さる。

 そういう事を信じて、そうして謙虚になって、この祈りを唱えて

いきたいものだと思います。

   昭和63年6月13日   

                 五井 昌久